日本社会臨床学会第18回総会のご案内

日本社会臨床学会第18回総会でより多くの人と問いかけあいたい

 

榎本達彦(第18回総会実行委員長)

 

最初、日本社会臨床学会総会の会場を明星大学でという話しがあって、大学への交渉を始めた時点では、まさかこのような文章を書くことになるとは思いませんでした。臨床心理学会改革時代の一時期以来、一昨年の社臨総会に約30年ぶりに参加したこと、37年前に和光大学に着任した篠原睦治さんのプロゼミを、和光大学に入学したばかりの僕が履修したこと、ひょんな事から僕が5年前に明星大学の非常勤講師になったことなど、そんないくつかのたまたまが重なって、この文章を書く事になりました。
僕は8年ほどのフウテン生活を終えてサラリーマン生活に入り、50歳の時に「中年フリーター」宣言をして、ネクタイとスーツを捨てる事にしたのでした。「中年フリーター」宣言をした後、人材開発的な仕事を生業にしようと考えました。いわゆる、企業の社員研修の講師です。
ところが、明星大学が「初年次教育」を設置した時に、その講師の仕事が入ってきたのでした。僕が担当した授業は「自立と体験」といい、学ぶ意識の低いままに大学に入ってきた学生のモチベーションを高めるというのがその任務でした。というよりも、そういう任務であると僕自身がイメージして授業を組み立て、進めて来たのでした。2年ほど授業を進める過程で僕の中に自分がしている授業に対しての違和感が生じてきました。
その違和感は時間と共にふくらみ始め、少しずつ授業に対する、というよりは学生に対する僕の姿勢が変わってきたのです。それは、予め、社会に出て行く学生を社会に適応させるための授業ではなく、今目の前にいる学生の生き方、存在にしっかり眼を向けるという、僕の主体と学生の主体の間を見据える事の大事さへの気づきです。
僕が社会臨床学会の会員になったのは、「社会臨床」という考え方と「今、目の前にいる学生」に向き合う僕が持ち始めつつあった問題意識に関連があるのではないか、という思いがその一つでした。ですから、僕自身の教育(研究ではなく)実践を批判的に考えていくというのが、僕の基本的な姿勢です。
今回総会の実行委員長という役目を引き受け、より多くの人に参加していただきたいという思いは、まさに僕が総会の場でより多くの人と会い、語りあうなかで、僕自身の実践を再考したいと願うからです。それは同時に、いろいろな場で、いろいろな形で心理、教育、福祉等々に関わっている方々がそれぞれの実践を再点検する場とされることを期待するところでもあります。昨今の日本社会を見た時に、ラジカルに「今ここに」と問いかけることが必要なのだと、僕は思うのです。ぜひ、より多くの方々に参加いただき、そんな「今ここに」というラジカルな問いかけあいをしたいと思います。

 

 

日時

2010年5月8日(土)・9日(日)

 

場所

明星大学
 (東京都日野市程久保2ー1ー1)
(多摩モノレール「中央大学・明星大学」下車。改札(1カ所)を出て左方向に進む。学内エスカレータがあるのでそれを昇る。多摩モノレールへの接続は、西武拝島線「桜上水」、JR中央線「立川」、京王線「高幡不動」、京王線相模原線「多摩センター」、小田急多摩線「多摩センター」の各駅が便利です。なお、駐車場スペースに限りがあるので、できるだけ公共交通機関をご利用ください。)

 

参加費・交流会費

参加費・2,000円(但し学生・その他(応相談)1,000円)
交流会(5月8日夜)参加費・3,000円
(当日、直接会場受付にお越し下さい。事前の参加申し込み等は必要ありません。)

 

プログラム

5月8日(土)

10:30
受付開始
11:00~12:00
定期総会(第IX期前期総括、会計報告)
13:30~17:30
シンポジウムⅠ 「当事者」概念を問い直す

話題提供
篠原睦治(子供問題研究会)、鈴木治郎(神奈川県障害者自立生活支援センター)、川英友(静岡英和学院大学)
司会
古谷一寿、三輪寿二
18:00~20:00
交流会(明星大学内)

5月9日(日)

10:30~12:00
記念講演 武田秀夫 演題「楕円幻想〜ドストエフスキー、賢治、古井由吉に触発されつつ〜
13:00~16:30
シンポジウムⅡいま、自立・労働を問い直す

話題提供
山下耕平(NPO法人フォロ)、今野晴貴(NPO法人POSSE)、中島浩籌(河合塾COSMO、法政大学)
司会
梶原公子、原田牧雄

 

 

発題要旨

シンポジウムⅠ「当事者」概念を問い直す

今回のシンポジウムⅠは、2009年の合宿学習会「『当事者』概念を考える」に触発されている。学習会に参加していないとわからないわけではないが、最新の『社会臨床雑誌』18巻1号に学習会記録が掲載されており、目を通していただけたら、と思う。
今回のテーマは「当事者」という言葉をめぐって、である。選択の余地もなく一方的に「する」側に差別的な生活の諸々を強いられてきた「される」側が、その不条理さに対抗するためにこの言葉を利用し、それに希望を託すことだってあるだろう。
しかし、篠原は、それと裏腹に、その言葉は、「する」側がもがく共にあろうとする関係構築を断ち切り、翻って、「する」側を免罪する可能性さえもつことを指摘する。また、鈴木は、「当事者」の立場から、「する側」と「される側」の「大きな溝」を埋めないままこの言葉が使われていく文脈に警戒的である。そして、川は、「当事者」という言葉によって隠蔽されてしまうものの正体をシンポで探してみたいと提案している。
当日、話題提供への共感や異論が、そして、自己決定・自己選択、当事者主体、「する側—される側」の関係性といった事柄が議論になるように思われる。ひろがりを持った討論になることを願っている。(司会 古谷一寿 三輪寿二)

話題提供1 「する側—される側」にこだわって
篠原睦治(子供問題研究会)

ぼくは、昨秋の社臨学習会で司会だったが、学会改革時代の臨床心理学会や昨今の社会臨床学会で「する側-される側」の関係をどのよう考えてきたかを振り返りながら、そこでの「当事者」概念を論じることを要請されていたまま、果たせなかった。ときは、70年代当初にさかのぼるのだが、ぼくは「共生・共育」を願って、「障害」児親子と本格的に付き合い始める。この頃、ぼくは、「(心理テスト・カウンセリング)する」側を自己検証しながら「される」側と共にあろうとしてもがいていたが、「される」側が「当事者」であることを主張するとき、その関係が切られることがあったし、その主張によって、ぼくの立場が楽になることもあった。以来、ぼくは、「当事者」慨念に警戒的、否定的である。
ところで、昨今、教育・医療・福祉サービスの領域で、「当事者」の立場、ニーズ、権利が強調されている。そして、自己決定、選択の自由も言われている。これらはセットである。一見、「する」側が「される」側に従属する関係になっていて、「される」側があたかも王様であるかのようである。そんなはずがない。
最近、アメリカ人の友人に「当事者」を訳してもらった。彼は、訳しにくい日本語だと言いつつ、“The Affected Parties(利害を受ける当の側)” と。迷訳かつ名訳だと思った。ここには、ぼくが気になってきた「当事者」慨念の問題が込められている。当日は、この概念をめぐる体験を振り返りながら、ご一緒にじっくり考えたい。

話題提供2 「障害当事者」の主体性とは…
鈴木治郎(神奈川県障害者自立生活支援センター)

十数年前の頃から、自分たちの事を「障害者」から「障害当事者」と「当事者性」を強調した表現で呼ぶようになった。
社会福祉基礎構造変革で「利用者主体」という考え方が明確化され、保護されてきた立場から、自分たちの生活を自己決定・自己選択していこうと積極的に「障害当事者」という言葉を「武器」にしていった。
「障害当事者」を支える存在として、様々な「非当事者」の人達がいる…家族、ボランティア、行政、施設職員、介助・介護者、ケースワーカー 、etc。
その中で、「障害当事者」と「非当事者」の関係を考えると「する側」「される側」の立場という「大きな溝」を埋めないまま、「する側」は、制度や理念で「利用者主体」がこれからの福祉には正しい考え方だといい、一方の「される側」の本音は、優しくて何でも言う事を聞いてくれれば…という勝手な思いで繋がっているのではないだろうか。
実際の話、障害者の生活が「障害当事者」だけで、出来るわけでも無いし、成り立つ事でもない。自己実現を可能にするためには法律を始めとする制度と、マンパワーとしての「非当事者」が必要となってくる訳で、対等な関係やディスカッションの余裕など無いのもまた現実である。
そして「障害当事者」にとっての自立生活の基本的理念である“自己決定・自己選択と当事者主体” は、どうすればいいのか…具体的に「される側」から述べてみたい。

話題提供3 「当事者」「当事者主権」により不可視化される存在 隠蔽されてしまう何か
川英友(静岡英和学院大学)

賃労働をしないことを貧困に陥った人が責められる。障害者が哀れみの対象で見られる。このような社会の中で、当事者の声が重視され、当事者団体の主張が取り入れられ、ニーズに基づいた福祉制度が設計されることが必要なことは実際にあるでしょう。最近の当事者や当事者主権という言葉により、幸せをつかんだ人間もいるかもしれません。
しかし、本当に当事者という言葉は人間を解放しうるのでしょうか。当事者や当事者主権という言葉によって、新たな苦しみを負ってしまう人間はいないでしょうか。当事者や当事者主権という問題によって逆に声を上げられなくなってしまっている人はいないでしょうか。
社会の中で生きにくさをかかえた人は、みな「当事者」という存在になることによってしか、その生きにくさを解決できないのでしょうか。では、「当事者」になりたくない人やなれない人がかかえる生きにくさは、放置されてもやむをえないでしょうか。
どうしても私は、当事者や当事者主権という言葉をいろいろな場所で聞くたびに、ある面では納得しつつも、素直にその言葉を受け入れることができず、ひっかかりを感じてきました。総会での発表準備、発表を通して、このひっかかりが何なのかについて皆さんと考えていけたらと思います。

 

 


 

 

記念講演 楕円幻想〜ドストエスキー、賢治、古井由吉に触発されつつ〜

武田秀夫(エッセイスト)
武田さんは、社臨会員だが、学会では「〈少年〉という装置—その映画における効用」(社会臨床シリーズ4『人間・臨床・社会』1995年)やシンポ「高齢社会の人間関係」(第 8回総会2000年 )で発言されている。長年、『嵐寛が風にゆがんだ』(朝日新聞社)、『子ども万華鏡』(パロル社 )等々の映画に関するエッセイを綴り続けている。40代半ばまで中学校教員をしていて教組活動にも熱心だった。その後、東京・青梅の地で、霞塾を開きつつ、ドストエフスキー、古井由吉を読む集いを主宰してきた。いま、古稀を迎えた。このとき、「道はいづこへつづくらむ」の想いで随想的な語りをしていただく。(司会 篠原睦治)

記念講演などという大それたものを、なぜお前は引き受けたのかとあきれる声が自分の内にある。「なあに、軽薄君子たる俺の好奇心さ」と居直りながら、暮夜ひそかに、「それにしても、なぜこの俺にそんなものを頼むのかな」といぶかしくも思っていて、その期待(どんな期待?)に応えられるかどうか、実に心もとなく思っていた。
が、昨年私は古希を迎え、今年は71歳になった。すると、以前は思いもかけなかったことが、あるいは以前から読んできたドストエフスキーが、漱石が、賢治が、古井由吉が、思いもかけない新たな相貌、つややかな相貌をもって、自分のなかに浮上してきたのに驚いていて、「としをとるのもわるくねえなあ。かつてこういうふうだと思っていたことがこんなふうにみえてくるのか!」と、まるでこれまでの自分をもう一度生き直しているような気がしていたものだから、それをひとさまに話させていただくのも、なにほどかの意義があるのかなと思い直したのである。
私には、ものを思うときの一種の癖くせがあるようだと、このごろ思っている。
以前、「ジョバンニの夢」「ファゼーロの夢」というエッセイにおいて〈楕円〉のイメージを援用したのだが(『さようなら少年の夢』 朝日新聞社)、気がついてみたらその後も、「楕円の夢」「夢の楕円」という文章を書いている自分があった(『癌という体験 いつのまにか朝日が』 現代書館)。
が、なぜ〈円〉でなく〈楕円〉なんだ?
アブクのようなそんな思いをタネになんとか話の花を咲かせられたらなあと思っている。

 

 


 

 

シンポジウムⅡ いま、労働・自立を問い直す

人々の働く環境がかつてないほど過酷なものになっている。特に若い人の場合は、仕事そのものが減少し、地方ではコンビニのアルバイトさえ無いのが現状だ。たとえ都会に出て来ても、非正規の不安定な仕事しかなく、月に10日近い徹夜仕事を入れなければ、生活できないなんていう人もいる。多くの人々が、個人の尊厳をずたずたにされ、自分をすり減らすことによってしか生きられないような毎日が続いている。こうした状況にも関わらず、若者に対して経済的自立を求める圧力は、年々強まっている。仕事が無いのに、働いて自立できないのは自分の責任だ、と言われたら、身の置き所が無い。
生存すら危うくする不安定な労働環境に対しては、例えばワンストップ・サービスのような緊急避難的な対応が求められるのは当然だと思う。しかし今回のシンポジウムでは、「経済的に自立することが、自立の基本」という前提が外され、「自立すること」「働くこと」そのものが基本的なところから問い直されると思う。それぞれのポジションで、若い人々と深い関わりを持つ三人の話題提供者の意見が響きあい、論議が深まることを期待している。(司会 梶原公子 原田牧雄)

話題提供1 「自立」している人など誰もいない
山下耕平(NPO法人フォロ)

若者の「自立支援」というとき、それを言う人は何を「自立」と考えているのだろう? せいぜいが就労させるくらいのことで、その先までは考えてなさそうだ。しかし、よく言われるように、就労したとしても、非正規雇用では極度に不安定で、逆に正社員は過剰労働だったりして、いずれにしても過酷な労働環境が ある。
そういう問題はおくとしても、たとえば正社員で会社に勤め、経済的には親に 依存しなくなった人は、そのかわりに会社に全面的に依存しているとも言える。あるいは家事を全面的に家族に依存していたりする。お金で生活をまかなうと、 何でも自分でできるような気がしてしまうが、それは商品関係に依存しているとも言える。
「自立」という言葉を和英辞典でひいてみたら、independenceとあった。支配関係や依存関係からの独立というところだろうか。支配関係や依存関係から脱却するには、依存先を変えるのではなく、関係のあり方を組み替えることが必要だろう。支配—被支配ではなく、支え合う関係であること。その関係の組み方は、 いろいろあるように思う。
根本的に考えれば「自立」している人など誰もいない。お金を稼ぐことだって、いろんな関係のなかでしか成り立ちえないのだし、食べ物はほかの生き物であるのだし、人間だけではなく、動植物や環境を含めた、いろんな関係のなかで 私たちは生きている。「自立」ではなく、ともに生き合っていける関係を考えていきたい。

話題提供2 若者の非正規雇用、職場の違法状態と「自立」を考える
今野晴貴(NPO法人POSSE)

労働と自立の関係を考えたとき、第一に問うべきことは、「労働では自立は不可能だ」ということです。先進各国の労働条件は、法律と労働協約によって規制されています。さらに、これでも人間が十全に生存するには不足が生じるために、各種の社会保障政策が行われています。日本では、こうした労働規制や社会福祉の双方が脆弱で「いい仕事を探す」ことによって自立ができると信じられてきました。開発主義的な政治経済、価値観が社会の隅々にまで浸透してきた結果です。まずはここから問い直すべきでしょう。
こうした考え方は、高度成長期には一定の現実性がありました。しかし、現在の雇用は到底「自立」を実現しません。いまや、非正規雇用の割合は労働人口の4割に達しています。しかもこの間増加傾向にあるのは非正規雇用の中でも「自立」が求められない家計補助型のパート労働者などではなく、家計自立型の契約社員、派遣社員などなのです。その上、08年からの不況下では、パート労働者が増加を続ける一方で家計自立型の非正規雇用が圧倒的に解雇され、社会問題となりました。こうした問題からは非正規雇用問題と「自立」の関係を考える必要性が示唆されています。
第二に、「自立」と労働から考えるべきもうひとつのテーマは労働法の活用です。子供たちは自立した個人として労働に向き合うすべを剥奪されています。教師や会社の言うことに従うことだけを教わった若者たちが、違法行為に対応できていないのです。この点も、シンポジウムの中で深めていきたいと思います。
第一のテーマは私自身の研究から、第二のテーマはNPO法人POSSEの調査及び労働法教育事業の経験からお話いたします。

話題提供3 経済的「自立」だけでなく、「自立」という観念そのものを問題化したい
中島浩籌(河合塾COSMO、 法政大学)

「若者の自立」を社会が主体となって育成していくべきであるとする主張が、今世紀になってからめだってきています。「自立育成」は今まで家庭や学校の役割とされていましたが、それを社会全体が担っていこうということです。しかも、経済的自立がクローズアップされてきています。つまり安定した仕事場で働くことが「自立」の必須条件である、と。確かに、安定した働き場がないことは厳しい状況につながってしまう。労働状況をなんとかすることは大事な課題でしょう。しかし働くことがすべてではない。働いていないことは「自立」していないことなのでしょうか? 2007年度の有業率は生産年齢人口の6割を下回っています。では、他の4割ほどの人は「自立」していないということになってしまうのでしょうか。働くということと「自立する」ということの関係をシンポジウムでは問うていこうと思っています。
もっとも「自立する」という言葉自体あやしい概念です。「最近の若者」は自己肥大化傾向があり、過剰に自己実現を求め、その結果動きだすことができず、家族などに依存してしまい、精神的にも「自立」できなくなっていると盛んに言われています。こんな風に、依存—自立の関係で今の状況をおさえてしまってよいのでしょうか。その点についても、総会当日のシンポジウムで問題提起できれば、と考えています。