〈声明〉国会提出中の臓器移植法「改正」案に反対し、尊厳死の法制化の動きを警戒する

2006年5月21日
日本社会臨床学会運営委員会

私たち、日本社会臨床学会は、創設時点(1993年春)から、学会運営委員会の企画、運営のもと、総会、学習会、学会誌などで、「脳死・臓器移植」問題、追って「尊厳死・安楽死」問題を批判的に考え続けてきた。
今日、臓器移植法「改正」案が国会に提出されており、「脳死・臓器移植」問題は、新たに深刻な段階に入っている。また、射水市民病院(富山県)における、「延命医療措置の中止」のあいつぐ事態(昨年10月までに7件)が、今年三月以降、マスコミ報道されるに及んで、にわかに再び、尊厳死の法制化の動きが顕著になってきている。
私たちは、以下に述べる理由で、上記の二つの動きに危機意識をもって、臓器移植法の「改正」と、尊厳死の法制化に反対する。

国会に提出された臓器移植法「改正」案は、現在、二つだが、いずれも議員立法で、A案は、「脳死」を「ひとの死」と確定し、「本人意思の尊重」の原則を限りなく後退させて、臓器提供の拒否を明記している者以外、すべての「脳死」者からの臓器摘出を可能にしようとしている。そして、臓器摘出にあたっては、「家族の同意」で済ますことにしており、それだけに、「家族」のいない「脳死」者は直ちに摘出されることになる。本案には、「親族への優先提供」という事項すらある。さらに、「小児の臓器移植」への道を開くとして、大人、子ども、だれからもの臓器摘出を可能にしようとしている。
現在のところ、国会内で、この案が多数派を形成していると聞くが、B案は、上記A案の乱暴さに戸惑いながら、「本人意思」の表示を法的に有効とする下限年齢を15歳から12歳に引き下げつつ、その分、臓器提供の理解と協力を得るために家庭と学校などにおける「移植医療に関する教育」を強調している。そして、いまだ提出段階に至っていないが、「12歳以上は本人の意思で、6歳以上12歳未満は保護者の意思で臓器提供できる」とする第3案も考えられているようだ。
以下、その問題を述べる。

(1)「脳死=ひとの死」が成立するのは、ひとが確かに生きていることの根拠や条件に「意識、感覚、感情、思考、そして、自発性、能動性、応答性」などを想定しているためで、「脳死」とみなされた者は、生きているとしても生きるに値しない状態になる。つまり、「脳死」を「ひとの死」と断ずることも、「生きているとしても死んだも同然」と表現することも、「脳死」者を臓器摘出の対象とみなしていることにおいて、なんら変わっていないと言わなくてはならない。ただ、「脳死=ひとの死」としてしまうことのほうが、「殺人」という違法性を問われないですむので、臓器摘出に伴う厄介さが、一つなくなることになる。
(2) 現行法において、「脳死」者からの臓器摘出を可能にする重要な手続は、「本人意思の明記」と「家族の同意」であるが、そもそも、これは、「死の自己決定権」と言われるもので、「死は私有化されているし、家族の担保と管理の下にある」という考え方に立っている。その意味で、「死」は看取る側と看取られる側の間にあるという家族共同体的な強調の仕方も、この考え方を補完する危うさを持っていることに気づいておきたい。
そもそも「死の自己決定権」システムを本格的に挿入した現行法は、移植推進側から「臓器移植禁止法」と非難されてきていて、それゆえ、その「改正」が叫ばれてきたのだが、とすれば、この権利のシステムは、臓器移植法の社会的合意を得るための啓蒙的、暫定的装置だったということになる。といって、私たちは、このシステムをきちんと位置づけることで、脳死・臓器移植の「慎重な実施」を求めているのではない。私たちが問うていることは、脳死・臓器移植それ自体の問題である。
(3)「脳死・臓器移植」は、臓器が摘出される側と移植される側の関係において成立する事態であり、死なすことと生かすことの組み合わせで成立している。この組み合わせが成立する事情には、上記(1)で述べたこと(特に、前者を生きるに値しない生命、後者を生きるに値する、とするQOL論)があるのだが、その結果として、今日、移植医療推進に傾斜した施策とその合理化が急激に進行している。例えば、政府管掌他の健康保険証に「臓器提供欄」を設けること、臓器移植に伴う費用を保険点数化することがある。そこには、臓器摘出時における「脳死」者の痛みを緩和するための医薬も含まれる。一方で、脳低温療法という、脳死状態に近づきつつある重症脳障害の回復に有効と認知されてきた治療法に対する健康保険の適用はいまなお認められないままである。
私たちは、他人の死を当てにしない治療と生命維持とともに、「脳死」者ないしそこに傾斜しつつあるかもしれない者への治療と生命維持を同時に、徹底して追求してほしいと願わざるをえない。
(4) 欧米において「脳死・臓器移植」は、「生命の贈り物」論として倫理的に意味づけられてきたが、そのため、移殖推進側は日本で臓器移殖が思うように進行しない事態を、そのような倫理性の欠如のゆえであるとして非難してきた。しかし、アメリカ、中国など、臓器移殖が盛んな国の事態を、そのような倫理性の高さで説明することができるであろうか。各地で進行する臓器の売買など、生命の資源化・商品化、そして「南北問題」の実態をこそいよいよ明らかにしなくてはならないし、日本人が、その文脈で、募金などによって集められた大金を持って他国に出かけて移殖医療を受けている一連の事態を反省的に考えなくてはならない。
(5)移植推進側が強調してきたことだが、移殖医療を待っている患者が増えているにもかかわらず、ドナーカード携帯者が圧倒的に少ないので、患者のニードに応えられない状態であると。それゆえ、現行法の「改正」が必要であるとも。そもそも「脳死」状態の発生をもたらすかもしれない事態は、交通事故、頭部の強打、銃撃などの犯罪被害、くも膜下出血などの脳疾患なのだが、日本において、犯罪被害による「脳死」者はほとんどいなく、交通事故件数は年々減っている。とすれば、移植医療の推進側が、適用患者を増やしながら(作りながら!)、「脳死」者の(そこに対応する)増加を期待することは戦慄すべき事態であると言わなくてはならない。
ここでは、「脳死」者は作られがちだし、死なされていくことになる。また、普段に暮らす私たちは、「臓器移植適当」と診断されたとき、多くの場合、その枠の中に閉じ込められ、臓器を待ち焦がれつつ暮らす呪縛の生活を強いられることになる。こうして、移殖推進医療側の姿勢に警戒せざるをえないし、反省を迫らなくてはならない。
(6)今回のA案に代表される「改正」案は、「脳死=ひとの死」という確定は一応臓器移植を前提としているが、臓器提供の「本人意思」から切り離される「脳死=ひとの死」のひとり歩きを許す論理になっている。つまり、「脳死」者の医療資源化に加えて、実験・研究の材料化、そのための商品化は、もともと陰に陽に行われてきたことだが、いよいよ公然と進行しやすくなると警戒しなくてはならない。この際、私たちは、「脳死」者は生きている、だから、移植医療は殺人であって間違っていると主張することに留まらず、その者が生体であれ、死体であれ、人体の資源化・商品化はおかしいと言っていかなくてはならない。

以上で、臓器移植法の「改正」がいかに危ない事態を引き起こしていくかを指摘したが、一言で言えば、脳死・臓器移植は、「生きるに値しない生命」を死なせて、「生きるに値する生命」を生かす医療である。それは、弱肉強食の思想に立つものであり、優生思想そのものであると指弾しなくてはならない。実は、「延命医療措置の中止」(生きるに値しないとみなされた者を死なすこと)をプラスに意義づけようとする「尊厳死」の勧めもまた、同じ考え方、同じ社会の在り方に依存している。それゆえ、私たちは、重ねて言うが、「尊厳死」の法制化の動きに厳しい批判の眼差しを集中しなくてはならないと自覚すると同時に、現行の臓器移植法の廃止を展望しつつ、その「改正」に反対する。