日本社会臨床学会第17回総会のご案内

日本社会臨床学会第17回総会(奈良大会)に是非ともご参加を!

 

浜田寿美男(第17回総会実行委員長)

 

社会臨床学会総会が奈良で開かれるのは、今回が初めてです。私自身、学会というところにはまったく出不精で、社会臨床学会へも学会設立当初の数年のあいだ顔を出しただけで、最近はすっかりご無沙汰しています。あんまり不義理をしてきたもので、「今度は奈良で」と言われたとき、断るのも気が引けて、それに今年がもう定年という年齢で、これ以降はもはやお手伝いすることもかなわぬ身になりますから、最後のご奉公という気分で、「では会場は用意します」と引き受けた次第です。私どものほうでは何の企画も用意せぬまま、およそ開催校とは名ばかりなのですが、さはあれ、多くの人たちとの久々の再会もあり、新しい人たちとの出会いもあるはず。せっかくの機会を生かして、議論を交わしたいものと思っております。いささか熱のこもらないご案内ではあるのですが、どうぞたくさんの方々のご参加がありますよう、期待しています。
こんな次第で、若いころのように勢いのよい言葉は出てきません。それでも、もちろん、世の中をあきらめているわけではありません。私自身について言えば、ここ30年あまり、刑事裁判の世界に足を踏み入れて、文字通りの「社会臨床」の場に身をさらし、負けに負けて、悔しい思いを重ね……、その思いをどう清算すればよいものかと、いま考えあぐねているところです。いずれ、その恨みをしっかりかたちにせねばと思いつつ、よく考えてみれば、じつはその前に地道にやっておかなければならないことが、まだ山ほどある。そんな状態です。
おそらく多くの人たちが、それぞれの場で同様の思いを積み上げているに違いありません。そして、その思いにかたちを与えるべく、たがいに議論をぶつけ、やがては社会に切り込む道筋を立てたい。そう願っている人も少なくないはずです。もちろん、それは容易なことではありません。そこで必要なことは、この思いを継続できるだけの場をなんとか持ちえていること。学会というものに意味があるとすれば、唯一その点ではないかと、私は思っています。そうした学会の意味が、今回の奈良大会でも確認されることを祈念しております。

 

 

日時

2009年5月30日(土)・31日(日)

 

場所

奈良女子大学記念館
 (〒630-8506 奈良県奈良市北魚屋東町)
(近鉄奈良駅下車徒歩5分、又はJR奈良駅下車徒歩10分程度)

 

参加費・交流会費

参加費・2,000円
交流会(5月30日夜)参加費・3,500円
(当日、直接会場受付にお越し下さい。事前の参加申し込み等は必要ありません。交流会への参加も、当日受け付けますのでお気軽にご参加ください。)

 

プログラム

5月30日(土)

10:00
受付開始
10:30~12:00
定期総会(第Ⅷ期総括、会計報告、第Ⅸ期運営委員承認)
13:00~16:00
シンポジウムⅠ 心理主義化と薬物療法の現在を考える

話題提供
中井孝章、中島浩籌、戸恒香苗
司会
三輪寿二、原田牧雄
16:30~18:00
記念講演 浜田寿美男 演題「心理学に希望はない。しかし…」
18:30~20:00
交流会(奈良女子大 学生食堂)

5月31日(日)

10: 30~16: 00(12: 00~13: 00 休憩)
シンポジウムⅡ「優生学から新優生学へ」を検証する~日米を行き交いながら

午前
アメリカからの報告: 秋葉聰「アメリカの優生思想の伝統と現在」
午後
パネル・ディスカッション〜秋葉報告を聴きながら

パネラー
秋葉聰・竹内章郎・福本英子・山下恒男
司会
篠原睦治、林延哉

 

 

発題要旨

シンポジウムⅠ 心理主義化と薬物療法の現在を考える

今回のシンポジウムは、昨年上梓した社会臨床の視界シリーズ第4巻『心理主義化する社会』を意識している。学会が批判してきた「心」還元主義は、錯綜し複雑化する社会的諸問題の個人還元化、とりわけ「内面」=「心」への過剰な意味付けを行うものだ。その結果、カウンセリングなどの臨床心理技術に人々が惹きつけられ、日常が心理学の言葉で語られ、一人ひとりが自分の「心」をコントロールすることを執拗に求められる、という事態が生じてきたともいえるだろう。

しかし、いま時代は「心理主義化」によって特徴づけられるのだろうか。うつにはSSRI、ADHDにはリタリンなど、大人、子どもを問わずに「心の障害」が騒がれ、新たに問題化され、薬の効用がやたらに主張される。これは「心」というよりも「身体」や「脳」などに問題を還元する方向性とも言える。こうして、一方で、心理主義は「終焉した」という意見があり、他方で、それは「質的な変化」という考えもある。それらは矛盾するわけではない。いずれにしても、根本的な問題は「人間の行動を『適正に』コントロールすること」なのであろう。心理主義が、個々人の内面(自己)による行動のコントロールを強要するものであったとすれば、薬物に代表されるような行動のコントロールの方法はどのようなものか。それは心理主義からの変化なのだろうか。そして、行動のコントロールの方法の「維持と変化」の背景にはどのような社会の方向があるのか。理論的な側面から、あるいは臨床の実際場面から、これらの課題に重ねて、中井孝章さん、中島浩籌さん、戸恒香苗さん、三人のシンポジストから話題提供していただく。シンポジウムが問題提起的になることを期待している。(司会 原田牧雄、三輪寿二)

話題提供1 心理主義から環境制御主義への移行
中井孝章(大阪市立大学大学院)

M.フーコーによると、規律訓練型権力には2つの側面がある。1つは、監獄、病院、学校、工場等の社会装置(国家イデオロギー装置)を通じて規範を内面化し、内的かつ自発的に服従する〈主体〉(=〈臣下〉)を作り上げる側面である(人間の身体の「解剖-政治学」)。もう1つは、身体の隷属化をめぐる技術、すなわち規範化された内面なしの、身体的な反射作用による調教技術である(「人口の生-政治学」)。簡潔に言うと、規律訓練型権力は、告白(告解)よろしく、内面の規律を管理対象とする人間の人間的側面(=規律権力)と、登録番号よろしく、群れの効率的管理を目指す人間の動物的側面(=調整権力)という両義性を有する。このように、規律訓練型権力は内面化された「個人」や、群れを一員として配置される「個人」を量産してきた。そして、前者の「個人」は、牧人=司祭型権力を通して告白による主体や内面(アイデンティティ)の形成および「自分探し」とリンクすることにより、肥大化した個人を生み出し、社会の心理主義化をもたらした。

ところが、規律訓練型権力(特に、生権力)を引き継いだ環境管理(環境制御)型権力は、身体の隷属化と住民管理を行うための多様かつ無数の技術(特に、電子技術)―情報の束としての分割可能な個人を作り出し、それを機能的に制御する非人称的システム―を作り出した。環境管理型権力が制御対象とする環境には2つの側面がある。すなわち、1つは外的側面で、その代表は環境に埋め込まれたアーキテクチャ(例えば、自動改札、ファストフード店の堅い椅子、アルコール探知機内蔵の自動車、近づくとオフになるゲーム機など)、すなわち物理-工学的制御レベルである。もう1つは、内的側面で、その代表は人間のエンハンスメント(平均や標準を超えた能力向上)やサイボーグ化であり、具体的にはリタリン摂取による“健常者”の集中力向上や、プロザック服用による“健常者”の自尊心回復、さらには慢性疲労改善点滴・美肌点滴や点滴バー、すなわち生理的-医学的制御レベルである(その意味ではADHDの子どもがリタリンを摂取する場合は、“治療”と見なされる)。

発題では、規律訓練型権力から環境管理型権力への移行が、行動を心で説明する「心理主義」から行動をいきなり脳で説明する「脳主義」への変容であることを踏まえながら、環境管理型権力の2つの側面を、ユビキタス技術を用いた子どもの安全対策およびそれによって変容する子どもの生活環境(外的側面)と、子どもの能力増強(内的側面)を通して述べていくことにする。また、こうした管理技術の一連の変容が、パノプチコンという儀礼から超パノプチコン(アーキテクチャ)という電子儀礼へのそれであることも併せて指摘したい。カウンセリングやセラピーに代表される心理主義は、こうした儀礼から電子儀礼への過渡期に登場した立場であり、カウンセリングやセラピーと儀礼とは対立すると思われる。つまり、心理主義は規律訓練の基本である生活習慣形成、およびその進展態であるアーキテクチャや[薬物摂取に基づく]脳のスペック化およびエンハンスメントと対立するのではなかろうか。

著書には、『学校教育のメタフィジックス』(日本教育研究センター、2006年)、『学校身体の管理技術』(春風社、2008年)、中井・清水由香編『病いと障害の語り』(日本地域社会研究所、2008年)、『子ども学入門』(日本教育研究センター、2008年)、『鬼ごっこのリアル』(三学出版、2009年)、『子どもの居場所と多世代交流空間』(大阪公立大学共同出版会(近刊))などがある。論文は、「儀礼としての教師-児童生徒関係と子どもの発達可能性」(『教育と医学』第667号、2009年、11-19頁)、「病いの身体とナラティヴ―医療人類学の射程―」(『大阪市立大学生活科学研究誌』第7巻、2009年(近刊))など。

話題提供2 薬物療法の現在と心理主義の変容
中島浩籌(法政大学・河合塾COSMO)

薬物療法中心の精神科医療が浸透している。このところ、大学や高認予備校、フリースペースで薬を飲んでいる生徒と出会うことが多くなった。それと同時に、薬をできれば飲みたくない、なんとかそれを拒否することはできないのか、あるいはもっと少なくしてくれる医者はいないのか、と相談される機会も増えてきた。ここになって、薬物を出しすぎる医療のあり方も問題となってきている。NHKなどのマスコミでもそのことを扱うようになった。しかし、向かっている方向は「もっとしっかりした知識をもった専門家の育成を」ということである。だが、「もっと専門性を!」という声は医療や教育の世界で常にさけばれてきた。その結果がこれである。シンポジウムではこの「より専門化を!」という方向の問題点について考えていきたい。

また、現在の薬物療法の浸透をふまえて、現代社会を覆っていた心理主義の流れは終焉に向かっているのではないかという指摘もなされてきている。中井孝章さんの指摘がそれである(『社会臨床雑誌』16巻2号)。中井さんとは視点が違うが、斉藤環も、ゼロ年代に入り、90年代に隆盛だった心理学化という現象も衰退してきている、と言っている。

そう捉えてしまってよいのだろうか? 確かに、薬物療法では、「精神疾患」を脳神経系統の問題、神経伝達物質の問題ととらえ、心の“内面”の問題とはとらえない。そういった思考は広まってきており、“内面”を見つめていく方法は衰退しつつあるとも言えるだろう。しかし、私には心理主義が衰退しつつあるとは思えないのだ。心理主義が社会に根をはっているとは思わないが、心理主義化しようとする流れは続いているのである。

心理主義化が衰退していくのではなく、心理主義の中味が変質しつつあるのではないか、そう私は考えている。“内面”や“深層”にかかわっていこうとする心理学とは別のあり方へと変容しているのではないか、と。
こういったことを、私がいる場で考えてきたことをもとに、シンポジウムで問題提起できればと思っている。

話題提供3 薬で問題は解決されるのか
戸恒香苗(東大病院小児科心理相談室)

小児科の心理相談室にいる。この10年のことだが、精神科で「発達障害」と診断された子供たちの出入りが多くなり、彼等に処方される薬の話を見聞きすることも頻繁になった。また、精神科にかかりながら、小児科の相談室に話に来る若い人もいる。苦しくてやっと来ても、お医者さんは薬の処方だけで話はできない。

先日、精神科受診のあと気持ちの行きどころがなく、何かとんでもない事を起こしそうと、私たちの部屋に駆け込んで来た若者がいた。精神科の外来では心理職もケースワーカーも置かなくなっている。精神科に関してはカウンセリングブームはおきていないようだ。

学校のお残り勉強がいやで、学校から帰るとお母さんに癇癪を起こしていた小2の子どもに、区の療育センターの医者が精神安定剤を処方した。「統合失調症」適用の薬で鎮静作用がある。お残り勉強がなくたったら暴れなくなったとお母さんはほっとしている。

効率が重んじられ、親も学校も医者も待つなどいうことをしなくなっているし、私の中でも薬に対する抵抗が低くなっていることに気付かされる。限界値の3倍量の薬を飲ませられている子供もいるが、それでもその子の問題は解決されていない。薬がどう脳のメカニズムに作用するか説明されるが果たしてそうなのか。1990年代後半から、世界の医薬品の売上ベストテンは向精神薬が占めているという。市場原理の中で動く医療と私たちの生活を考えたい。

 

 


 

 

記念講演 心理学に希望はない。しかし……

浜田寿美男(奈良女子大学)

私の研究室には「心理学に希望はない」と大書した団扇がある。それを見た学生たちから「どういうことですか」と問われると、「他意はありません。文字通りの意味です」と答えるのだが、もちろんそれでは分かってもらえない。そこで大きな心理学辞典を渡して、「「希望」を引いてごらんなさい」と言う。それでようやくアカデミックな心理学辞典には「希望」などという概念はないのだと気づく。もちろん「希望」がないのだから「絶望」もない。あるいは「未練」も「後悔」もない。私たちが学んできた心理学はそのようなものであった。

人は身体の内側からこの世界を生きている。しかし自然科学をモデルにした心理学は、この身体を持った人間を、外から観察し、実験し、その行動法則を導こうとしてきた。そうした心理学に「希望」がないのは当然である。希望は身体の内側から世界を生き、明日に向かって思いを託すときにはじめて登場する概念だからである。では、「希望」のないこの心理学には、何を語ることができるのだろうか。そうした心理学が無意味だとは思わないし、そこから導き出される知見を無視してよいわけではない。ただ一方で、戦略的にそうしたパースペクテイィブを選んできた心理学が、心理学の「一つ」でしかないのも確かなこと。私はいま、その心理学に未練はない。

そう言い切ったところで、では人が生きる渦中にパースペクティブを置いて、そこに「希望」のある心理学を立ち上げることができるかどうか。

 

 


 

 

シンポジウムⅡ 「優生学から新優生学へ」を検証する
〜日米を行き交いながら

このたび、「優生学から新優生学へ」をめぐって、秋葉さんの「アメリカからの報告」を受けながら、日米を行き交いつつ、じっくり語り合うことにした。
以下に紹介する四人の皆さんは、社会臨床学会内外で、今回のテーマに関わって繰り返し発言されている。学会編の近著「シリーズ 社会臨床の視界」では、秋葉さんが「『バック対ベル訴訟』とは何か」、竹内さんが「〈対談〉『差別・抑圧としての死』を考える」、福本さんが「少子化対策と生殖補助医療を考える」、山下さんが「発達論としてのアイデンティティ論」を書いている。
なお、「アメリカからの報告」をする秋葉さんは、1969年、渡米。政治学、経済学など社会科学の分野で発言してきたが、昨年亡くなった脊椎二分症のご子息、5年前にガンで看取った夫人と暮らしながら、アメリカの医療・福祉問題に長年格闘されてきた。秋葉さんの一連の発言には、ここでの体験と思索が深く流れている。
早くも本号でも語られだしているが、昨今の優生学的思想・施策の現状をゴルトン以降の優生思想とわざわざ仕分けて「新優生学」と括ってしまうことでよいのかという疑問があるかもしれない。しかし、一方で、個人・家族の幸福、選択の自由、生命操作科学技術の発展などに特徴づけられる今日的事態に着目するとき、「新優生学」的時代と言ってよいかもしれない。さらに、今日こそ、優生思想・施策を考えるとき、「病気を予防し健康を増進する」、「能力・資質を高めるために教育、訓練が必要である」といった常識的言説にも立ち寄らないわけにもいきそうもない。そんなこんなで、やっかいなテーマである。
シンポジウムⅡは、そんなテーマに挑戦することになる。どなたも一緒に考えていただくことを熱望している。(司会 篠原睦治、林延哉)

〈アメリカからの報告〉アメリカの優生思想の伝統と現在
秋葉聰(アメリカ・ヴァジニア州在住)

問題提起―ゴルトンの優生思想は、「遺伝的にすぐれた国民を増やすことによって、国家は繁栄する」とする大前提に支えられているが、こうした大前提は今日にも通じるものがあるのではないか? ゴルトンの優生思想を継承したアメリカの優生運動は国家レベルでの国民の遺伝的形質の向上(改善)を追求した。今日では、子どものため、家族のためといった個人レベルでの「選択の自由(家族計画)」として子どもをもうけているが、これは単なるレベルの違いに過ぎないのだろうか?
ゴルトンの優生思想―ゴルトンの優生思想とは何だったのだろうか? ゴルトンが亡くなる数ヶ月前に書いた『カーントセイホエアー(Kantsaywhere)』と題するユートピア小説を通して、ゴルトンの優生思想を垣間みる。それは、一握りのエリートから構成される「優生協議会」が統治するユートピア国家で、優生学的にすぐれたカースト制度が敷かれ、カーストからもれた劣った人は強制労働コロニーに収容され、子どもを生むことは禁止される。
アメリカの優生思想は、ゴルトンの"Breed in, Breed out"(すぐれた人を生み、劣った人は生まない)を踏襲した否定的優生思想だった。州は精神薄弱者を施設に強制収容・断種を行い、民衆レベルでは「どの子も欠陥を持って生まれない権利がある」と訴えた。こうすることによって、社会(国家)の秩序が維持され繁栄するとするイデオロギーを貫いた。
新優生思想―今日は「遺伝子学の時代」と呼ばれ、ジェネティザイセイション(遺伝子還元主義)の思想が支配している。DNAが「私のアイデンティー」とみなされるようになった。平均的なDNAの配列を「正常」として、正常から逸脱した異常は疾患とみなされる。従って、従来の「障害」も遺伝子学的疾患となり、疾患は治癒の対象になるか、治癒が不可能な場合には疾患の予防として優生堕胎が勧められている。遺伝子学は正常か異常を明らかに過ぎず、そのいずれかを選択するのは個人であり家族であるとされている。今日では、「チャンスの時代から選択の時代」を迎えているが、正常な子どもを選択するのが、遺伝子学的に正常な親であり家族であるとみなされる。ジェネティザイセイションはこうした価値観をも規定するイデオロギーとなっている。デザイナー・ベイビーとは疾患(障害も含む)を一掃した上で、より美しい身体、よりすぐれた健康、よりすぐれた知的能力、よりすぐれた芸術的才能、よりすぐれたスポーツの能力を追求する遺伝子工学である。
今日では、個人の任意によってゴルトンが理想とした優生国家を築いているのではないだろうか。それは良い社会の建設なのだろうか?

パネラー紹介

優生学と能力主義との重畳のなかで
竹内章郎(いぶき福祉会、岐阜大学[社会哲学・生命倫理・障がい者論])

私は学生・院生時代、主に、マルクスを含むドイツ古典哲学の勉強をしたが、種々の個人的事情もあり、以後の25年程の勉強の重点は、未だ成果は貧しいにせよ、差別批判に関わる平等論や能力・能力主義論や福祉welfare論、障がい・病気論に置いてきた―マルクス主義的変革論やヘーゲル論理学にも随分世話になってきたが―。その際、人種・民族、性等による様々な差別の中で、能力{に収斂されること}による差別・抑圧が、最後まで残る最も克服が難しいものだと考え、この能力主義的差別・抑圧の克服への志向やこれに関わる悩みが、私の勉強や活動や生活の最大のインセンティヴとなってきた。
このような育ち方と感覚に基づいて優生学を捉え、また優生学を大雑把には、優勝劣敗(強者賞揚弱者排除)―優劣や強弱の測定基準如何は別途あり―と生物・個体還元主義―遺伝決定と遺伝操作等の双方含む―の二点で定義してきた私にとっては、多様な優生学は、最広義の意味での能力主義の多様な在り方を示すようにみえる。例えば優生学はプラトンの昔から近世のモアやベーコンを含め多々あり、近代でもゴールトンや福沢諭吉の優生学は、ナチス優生学に還元されないし、ナチ近辺でも、シャルマイヤーやプレッツ(後年ナチ党員)は元々、ナチ的人種差別とは別個のメリトクラテック(≒能力主義的)な優生学を唱えていた。私からすれば、人種差別等と区別される優生学は全て、能力主義の一環であり、優生学は、仏革命時の所謂『人権宣言(誤訳)』6条の「能力以外の何等の差別もなく(≒能力では差別する)……」なる近代主義的規定とも通じている。
だから余計に優生学と新優生学を巡る論争も、連綿と続く能力主義問題の変形のように思える。このことはもちろん、優生学自体が今なお、現実の大問題である点を否定しはしない。ちなみに私が今、最も問題視する優生学的論点は三つで、一つは、米国の「人民のための科学」の主導者リフキンが、商業的優生学Commercialized Eugenicsと名づけた優生学、つまり市場の勢力と消費者の欲望が推進し、庶民も推進しかねない優生学である。第二に、リベラル優生学から私的優生学、レッセフェール優生学等にまで至る多様な名称を案出して、優生学を中立的学問に仕立てて広めようとする動きである。第三は、以前の優生学研究の第一人者ですらが、近年、優生学批判はもはや現代の課題ではないと主張し始めた点である。これら三点による優生学の、また能力主義の跳梁跋扈に、何とか抵抗したい。

優生学は優生技術とともに様変わりしながらも
福本英子(ライター・DNA問題研究会)

篠原さんとのご縁で「社会臨床の視界」第三巻に書く機会を得、さらに今回シンポジウムで優生学についてじっくり学ぶ場を与えていただいたことをありがたく思っています。
「新優生学」といわれているものが古い優生学とどう違うのかといえば、私は、考え方としては同じだと思う。生殖に介入して集団の遺伝的改良をするというのがゴールトン優生学の考え方で、そこはなにも変わっていない。違うのは手段です。古い優生学には極度に私的な営みである生殖に介入する手段も、遺伝子に接近する手段もなかった。あるのはせいぜい権力によって産まないことを強制するくらいのことだったのですが、第二次大戦後、とりわけ1970年代以後、生物学のめざましい進歩によって遺伝子と形質が直接対応させられるようになり、さらに生命操作技術がつぎつぎに生み出されて、これが優生学に手段を与えるだろうことが予測されるようになった。
まず遺伝子が物質として取り出されて、人為的に組換えることが可能になり、一方で個人の遺伝子診断ができるようになった。それから体外授精によって人の受精卵が体外にとりだされて培養操作されるようになり、90年代にはヒトゲノムのなかみが塩基レベルで解読され、クローン胚やES細胞など幹細胞発生操作技術が登場し、2007年末、とうとう人工多能性幹細胞といわれるiPS細胞が作り出された。マウスでの実験ではiPS細胞からシャーレのなかで生殖細胞が作れることがわかっています。
こうした技術は優生技術として直接人間に適用できるほど完成してはおらず、本当に使えるものになるかどうかもわかっていないのですが、シナリオは書けるようになっている。
期待する側からも警戒する側からも「新優生学」の語で語られているもののなかみはそういうことだと思います。つまりイデオロギーとしての優生学は変わらないけれども、このままいけば先端生命技術を次々に投入されて人はどのようにでもデザインし作り出せるようになり優生学は様変わりするだろうということです。
そうなら優生学はどのように様変わりするのか、あるいはしつつあるのか、せっかく頂いた機会なので、しっかり勉強させてもらうつもりです。
関連著書に、『人・資源化への危険な坂道』(2002年 現代書館) 『生物医学時代の生と死』(1989年 技術と人間) 『生命操作』(1984年 現代書館) 『危機の遺伝子』(1982年 技術と人間)などがある。

優生学とは何だろうか?
山下恒男

いままで私が『社臨雑誌』に書かせてもらったものの中で、今回のパネル・ディスカッションのテーマに関連すると思われる論文として、「QOLの概念と理論的諸問題」(第3巻第1号、1995)、「最近の知能研究の動向―『社会適応』と『生理還元』の相補的関係」(第9巻第1号、2001)、「ナチスの人種検査―厳密さに彩られた虚構」(第16巻第3号、2009)、の三つがあります。これらはすべて優生学とどこかで関係していますが、直接あつかったものではありません。
最初のものは、J. F. フレッチャーの「人間の基準」に反発して書き始めたと記憶しています。また、知能研究についてのものでは、リー・M. シルヴァーの「デザイナー・チャイルド」についてもふれています。
三つ目の最近書いたものでは、ナチスにおける「混血」への恐れ、「純血」へのこだわりが、私の中では印象的でした。なお、優生学者と混血問題はかつてわが国でも、アイヌの「同化」をめぐってあったようです。
「人種」や「国家」単位で考えるか、「個人」や「家族」単位か、ということが、従来の優生学と新優生学とを分けているということは大雑把には言えるのかもしれません。しかし、そもそも「人種」とは何なのでしょうか。また、後者の単位で考える場合、医療との間にはっきりとした線が引けるのでしょうか。
そういう意味で、竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う』(2005年、人文書院)は前者で前提となる「人種」というくくりそのものを疑い、批判をしているので参考になると思います。しかし、その一方で、DNAレベルで「人種」を問い直そうとする流れには疑問を感じないわけでもありません。
最近、優生思想とか優生学というものが何であるのか、自分の中でわからなくなってきているので、この機会に考えを整理できたらと思っています。