学習会 「『少年犯罪』をどう考えるか」 を開きます!!


昨今、「少年犯罪」がテレビ・新聞・雑誌等いたるところで話題にされています。教育・福祉等の問題を通して子どもたちをめぐる諸課題について討論を続けてきた社臨としても、この話題を考えようということになりました。

社臨でこの話題が最初に出されたのは、2000年の夏の合宿でした。その際には、報道・メディアによる印象操作の問題としてでした。しかし少年犯罪という言葉にはカッコが必要だという投書の話から、その後少年法「改正」等にまつわって提起される少年や被害者の「人権」を中軸にした論理の危うさという話まで、様々な角度から意見が持ち上がりました。

今回はまず、「少年犯罪」の現在を広く捉えることを目的として、世界の「少年犯罪」を視野に置きながら、この問題を考えてこられた佐々木賢さんに発題をお願いすることにしました。佐々木さんの発題主旨をお読みいただき、ぜひ多くの方々と考え合いたいと思います。

テーマ
「少年犯罪」をどう考えるか
発 題
佐々木 賢氏
司 会
平井秀典(社会臨床学会運営委員)
日 時
2001年1月21日13:00〜17:00
場 所
文京区勤労福祉会館 (〒113-0021東京都文京区本駒込4-35-15;電話03-3823-6711)
参加費
500円

「少年犯罪」をどう考えるか

佐々木 賢

この数年、新聞や雑誌の少年に関わる記事を集めてきました。特に最近「少年犯罪」の記事が多くなり、マスコミは「心の闇」とか「十七歳の犯罪」を強調してます。

一方、「画一教育の結果だ」とか「表現能力を教えてこなかった」と主張する人もいて、行政側は教育改革を急ぎ、総合学習の導入とともに「生きる力」や「心の教育」を称え、学校カウンセラーを増やしてきました。

また、「コンビニが原因」とか「家族の空洞化」を説き、地域や家庭に原因を求める声もあります。さらに、「学歴無効の社会になった」とか「自己実現不能の社会」と原因を社会の変化に求める人もいます。逆に、「平穏な社会だからこそ起きた事件だ」という意見もあり、「加害者意識の欠落した社会」とか「少年犯罪が集団から個への移行」といった現象の説明だけをする人もいます。

十代若者の文化や気分を解説した評論もあります。「多くの若者に反学校と脱社会の気分がある」と指摘したもの、「一九九七年にキレ系マンガがファンタジーやギャグマンガを追い抜いた」と指摘するものもあります。十三歳以上を「少年」と呼ぶなと主張し、若者の一部でファシズム傾向が強くなったことを指摘した本もあります。

精神科医がマスコミに登場しています。そこでは犯罪少年を精神病と見る人と、そうではないと見る人との対立があります。前者は「親の努力の限界」や「心のケアや精神医療体制の充実」を主張します。後者は「強制入院はすべきでなかった」とのべたり、「人格障害と行為障害は精神科医が診断不能に陥っている」とのべ、医師が診断抜きでマスコミ発言することを戒めています。

少年法の論争があります。ただ、「改正」が犯罪の抑止力になりうるかという論点と、被害者感情の考慮や法廷処遇についての論点が、互いにすれ違っている感じがします。

さて、こうした様々な議論をただ見ているだけでは頭が混乱しますので、整理しなくてはなりません。この作業は困難になります。行政や教育や医療や司法や地域や家庭で「する側」と「される側」の立場が違いますし、大人と若者の意識の乖離もあり、法律や社会や心理や教育等、各分野の発想の違いもあります。情報や消費社会が人間にどう影響を与えてきたかの現状認識の差もあるからです。 そこで、今までの議論の中であまり論じられてこなかった五つの視点をだし、この五点を私なりに解釈した後に、これまでの議論を整理してみたいと思います。

第一は、「少年凶悪犯罪」は日本ばかりでなく世界中で起こっている点です。

アメリカの銃乱射事件はよく報道されましたが、ポーランドとドイツでも、連続して起こってますし、スペインやカナダにもあります。

第二は、無差別に不特定の人を殺傷する事件が一九九〇年以降に世界的に多くなっている点です。

少年の凶悪犯罪は昔からあり、特に現在が多いわけではありません。だが、一九九〇年以降のは、無差別で、一見、大人にはその理由が分からない点です。

第三は、犯人の少年たちが中流家庭の「普通」の少年だということです。貧困家庭出身者や、いわゆる落ちこぼれや、札付きの「ワル」とか非行少年ではないわけです。つまり九〇年以降に中流に何が起こったかです。

第四は、学校や教育のシステムそのものを見直すことです。学校内いじめや校内暴力や不登校や中退、それに大学生の学力低下も世界的現象です。これを「先進国特有の現象」という人もいますが、校内暴力はマラウイやヨルダンやエチオピアにもあるし、学校内いじめは中近東・アジア・アフリカにまで及んでいます。こうなっても教育が検討対象にならないのは、むしろおかしなことです。

第五は、コミュニケーション変容のことです。現在、大別して教育的・商業的・宗教的・相互的の四つのコミュニケーションが錯綜しています。この四者の勢力関係を調べてみることが肝要だと思っています。

最後に、私の立場を説明します。私が定時制高校の教師をしていた後半の十数年間、自分史と称して、生徒たちから生いたちや勉強や家庭や人間関係について語ってもらいました。十代の若者たちの意見や気分は、私にとって新鮮なものでした。というより、大人たちの考えや感じかたとの差があまりに大きいのでびっくりしました。

今、少年事件を考えるにあたって、私は自分が感じとった十代の若者の気分から出発することにします。先に示した五つの「少年凶悪事件」に関わる視点や特徴を踏まえ、十代の若者の気分から判断すると、一体どんな意見になるのでしょうか。どうかみなさん、私の意見をネタに、一緒に考えてみてください。