「暮らしの中の医療化」を考える学習会

日本社会臨床学会第VI期運営委員会

日時・場所

日時
2004年12月12日(日)14:00〜18:00(発題と討論)
場所
文京区勤労福祉会館(東京都)…JR山手線駒込駅徒歩15分程度

内容

発題と討論という形式で行ないます。発題は、石川憲彦さん(林試の森クリニック)、三輪寿二(運営委員・茨城大学)で行ないます。

学習会後、「こもん軒」(学習会会場から徒歩3分程度)にて交流会を行ないます(参加費2500円)。申し込みは、当日会場にて受け付けます。

*こもん軒は、日中は定食や、金曜夜は酒場を営むお店です。〈共生・共学〉を模索してきた子供問題研究会が、〈町の中の普通のお店〉を願って開店、17年が経ちました。社会臨床学会の運営委員会、ニュースの印刷作業・雑誌やニュースの発送作業もここを借りて行っています。(電話 03-3824-3306)

参加申し込み等

参加費:500円

申し込み:当日会場にお越し下さい。

お誘い

(以下の文章は、『社会臨床ニュース』第53号(2004年8月28日発行)に、「秋の合宿学習会」の案内用に掲載されたものです。「合宿学習会」が台風で中止となったために学習会企画のみ12月12日に行なうことになりました。文中に「秋の合宿学習会」を想定して書かれた部分がありますが、既に公開した文書なので、修正せずそのまま掲載しています。 2004-10-16)

「暮らしの中の医療化」を考える

日本社会臨床学会運営委員会

90年代以降社会の諸問題や、その原因が社会制度や生活環境に求められるような人びとの悩みや痛み軋みを、個々人の「こころ」の問題に還元して論じる傾向が顕著になっています。たとえば、阪神淡路大震災(1995年)以降大きな出来事が起きるたびに、そこに直面した人びとのPTSD(心的外傷後ストレス障害)やら、事件の加害者であれば人格障害などの精神障害の診断名がさまざまに、かつ頻繁に語られれる一方で、それらに対する制度的支援は必ずしも当事者の望むようなものではなかったり、あるいは的外れの責任論が横行したり、問題がすり替えられていたりする、と思わざるを得ない現状があります。PTSD概念などをもとにカウンセリングの理論化や制度化を行うような、個人を対象とした治療的処置ばかりが宣伝されそれでうまくいくというような幻想が振りまかれつつあるようにも見えます。

一方で、近年、「体質、脳、遺伝」といった人間の身体的・生物的な側面に原因を求め、そこに働きかけることで事態を解決しようとする傾向が強くなってきています。「脳・神経科学の浸透」はその例です。たとえば、教育、福祉、非行・犯罪、矯正などの領域で頻繁に語られるLD(学習障害)、AD/HD(注意欠陥/多動性障害)、高機能自閉症、アスペルガー症険群などは、それらのいくつかはかつての「望ましくない親子関係」から現在は何らかの「中枢神経系の障害」として語られるようになりました。そしてそれへの対処方法に「薬物の投与」が必要とされるようになります。

こうした現在の「脳・中枢神経系への還元」言説や「医学用語の普及」は一方で生物学・神経科学・医学(あるいは医療現場)などの専門家・実践家や彼らの言葉を好んで取り上げるマスコミなどからもたらされると同時に、普段に暮らす私たちの側からも支持されているという側面があると思われます。

これらの状況を一端、「暮らしの中の医療化」という形で捉えてみました。こう考えてみるとこの現象は「脳・中枢神経系への還元」といったこととは直接関係しないところでも起きているように見受けられます。たとえば、携帯電話を頻繁に使用する自分の日常を「携帯電話依存(アディクション)」と表現する人たちの言葉などがそれにあたります。

今回の「秋の合宿・学習会」では「医学用語の普及」や「脳・中枢神経系への還元」言説の普及という状況を見据えつつ、既述の文脈の中で“心理学・精神医学関係者はどのような期待をかけられ、どのような役割を担いだしているのか”、“「脳・中枢神経系への還元」言説が、私たち消費者の側からも支えられているという事態は、私たちのどのような暮らしぶり・心性・社会的経済的状況から生じているのが”、などを探っていきたいと考えています。

「秋の学習会」では、石川意彦さん(林試の森クリニック)と三輪寿二さん(茨城大学)のお二人に本題をめぐっての発題をお願いしました。石川さんは、最近まで大学で精神医学を講じ学生相談に従事してきて、今秋から小児精神科を開業される医師です。三輪さんは、かつては精神医療現場で心理職として働き、現在は、臨床心理学を講じながら大学附属の相談室で教育相談の仕事もしています。

お互いの体験と思索を披露しながら、じっくり語りあう機会になることを願っていますので、会員、非会員を問わず、お誘い合わせの上、ご参加くださるよう、ご案内します。

〈学習会〉発題要旨

石川憲彦

私は、医療化を、新しい現象ではなく、有史以来連綿と続く政治的な行為だと考えています。この行為の中で最も大切なことは、ストーリー形成です。生活者の側からは、生命の危機という究極の個人的課題に対し、最も安心できるストーリーを用意してくれるのが医療です。社会の側にとってはその防衛のためにもっとも納得しやすいストーリーを用意するのも医療です。

機械工業的な合理主義を求めてきた近代社会においては、必然的に工学的な科学を取り入れた西洋医療がその中心的役割を担うことになります。19世紀に、産業革命と植民地支配に勝利した英仏によって、キリスト教伝道に代わるものとして伝染病の克服という形で開始されたストーリーは、第二次世界大戦中、抗生物質の発見によって成功裏に第一幕を閉じます。第二幕は強大な重工業を背景とするアメリカ型の空爆のような一律一斉の治療論に、個体差という一見人道的なストーリーが加わります。それは物を生産する社会から抽象的に知的所有権を重視する情報産業社会への変化によって、東西冷戦構造が崩壊し、いわゆるグローバリゼーションが登場する時期と重なります。

よりミクロヘ、よりマクロへ。情報科学は、いずれの方向においても高性能性(8以上のけた数にまで精密性を可能とする)を拡張します。もちろん生きるか死ぬかというような古典的課題は、1ケタ課題です。

この空間的な双方向性は、時間軸においてはより過去へ、より未来へ(あるいはより早く、より単純に)という発達を求めます。しかし、21世紀を迎えた今日、情報社会の必然として、第三幕へと舞台は急転しました。地球環境の限界と裏腹をなすのは、生存形態の決定的変更というストーリーです。このストーリーには、肥大した医療産業の検疫問題という新たな経済問題も大きく絡んでいます。この流れは国内的にみれば、公共産業の民営化、小さな政府、個人責任と個人負担、老人化(科)社会、社会防衛思想の増大などと関連付けられるでしょう。

当日はこのような考え方に立って、産業革命以後、知的障害者と身体障害者がどのような医学的ストーり−の下に置かれ、それがいかに今日、特別支援教育が取り扱うような新たな障害者観を形成してきたかといった点について考えてみたいと思います。また、遺伝子化(geneticization)と呼ばれる現象や、新たな社会防衛思想と精神障害者の犯罪といった点についても述べてみたいと思います。ただ、ここまで抽象的な話ばかり書きましたが、話題提供の中では、LD・AD/HD・高機能自閉症などとよばれる問題に対する精神医学の考え方や、脳と心の関係、遺伝と環境の関係に対する医学的なアイディアの変化などを中心に、なるべく臨床家としての話をする予定です。

〈学習会〉発題要旨

三輪寿二

今回は、大学付属の相談現場での僕の体験を通して、私たちの暮らしや生活(学校生括などを含めて)の中で、“なに”が“どのように”「困りごと」=「問題」になっているかを少しでも点検できたら、と思っています。あらかじめお断りしておきたいのですが、僕の「偏狭な」体験を通してですから、親と教師と「専門家」にまつわる話になるだろうと思いますし、「医療化」と言っても、とりわけ特殊支援教育と関係深い「発達障害」をめぐる話になりがちで、PTSDや人格障害などといった話にはなりにくいという面があります。

子どもの「問題」を、親はどう「困りごと」として見ているか、教師はどうか、そして、なぜ、親や教師が「医学的用語」を自分たちの生活(職業生活を含めて)の中に受け入れようとするのか、そしてどのように「専門家」(つまり、僕)は「問題」を捉え、操作しようとするのか、などが話の中心になるだろうと思います。

発題の中で予定している「専門家」の操作の一つをここに書いておきます。経験的には、「発達障害」の場合、僕のところに「問題」が持ち込まれたときは、ほとんど親も教師もそれを予感している、あるいは、医者にかかって既成事実化していることが多いという印象を受けます。その中で、親と教師が子どもの「問題」をめぐって、子どもに望んでいることはたいてい食い違っています。その食い違いを、僕は「専門的知識の啓蒙」(「障害」の中身やその対応の仕方)を介して、「よく言えば」仲を取り持つことになったりすることがあります。いささか没主体的な言い方をすれば、これは具体的な場面で親と教師から「専門家」に期待されている役割の一つということにもなりますが、それは、同時に得体の知れない「専門的知識」を振りかぎすことを通して「専門家」の面目を保つ行動でもあるのです。やはり、そこにはそれぞれの立場の利害と役割、権威とニーズ、などが埋め込まれています。

また、親や教師の言い分を聞いていると、それぞれの立場から生まれる思い、あるいをそれぞれの立場が担わされる様々な要請などが子どもの「問題」と関係しています。しかし、同時に、それぞれの親によって、それぞれの教師によって、子どもの「問題」に対する位置どりや感じ方が微妙に、あるいは大きく異なっていることも確かです。その中でも、僕が共通して感じることの一つは「さしあたりすっきりしたい」ということなのではないか、と思っています。とすれば、それに応ずる「専門家」の役割は「さしあたりすっきりさせたい・させてあげる」ということにもなります。

しかしながら、こうした顛末の中で翻弄されているのは子どもたちであるとも言えます。

石川さんの発題とできるだけ歩調を合わせながら、ささやかでも具体的な肉付けをしながら、本題にまつわる課題の広がりと問題の所在などを、ご参加くださる皆さんと一緒に考えていけたら、と思っています。