*なお、本総会は学生ボランティアによる無料託児所を設置します。
70年代、「共に生きる」願いと主張は、養護学校の義務化を批判する危険思想とみなされていた。80年代、国際障害者年を契機に、障害者の社会参加やノーマライゼーションが主張され、模索される中で、「共に生きる」は響きのよい言葉としてよく聞かれるようになった。90年代に入ると、「共に生きる」は、「健常者・障害者」問題においては、インクルージョン教育とかバリア・フリー社会への提言と共に語られるようになった。そして、男と女、日本人と在日外国人など、いろいろな関係における「共に生きる」も主張されるようになった。
今回のシンポジウムでは、「共に生きる」ということの氾濫の中で、「健常者・障害者」問題を軸に、「共に生きる」をめぐる経過を振り返りつつ、その現在を検証したい。
発題者
林恭裕(北海道福祉協議会)
横井寿之(北海道医療大学)
篠原睦治(和光大学)
司会者
能登睦美(札幌市立開成小学校)
平井秀典(江東区塩浜福祉園・学会運営委員)
私は、1978年の養護学校義務化反対運動契機に,障害児の親たちと「札幌共に育つ教育を進める会」を結成し,就学運動にかかわってきた。その運動は、「障害の有無」や「できる・できない」などを理由に「障害」児を地域の普通学校から排除して効率的な教育を推進しようとする教育行政そのものと、安易に子どもの振り分けに荷担する「専門家」という存在への異議申し立てであった。
私は,この運動を通して「共に生きる」ということの意味を問いつづけてきたが、いまでは、誰もがあたりまえのこととして「共生」を語るようになってきた。しかし、それでは状況が変わったかというと、そうではないような気がしている。
私がこれまでかかわってきた就学運動と私の職場である福祉という二つの面から「共に生きる」を再度考えてみたいと思う。
1950年生まれ、札幌市出身。1974年4月から社会福祉法人北海道社会福祉協議会に勤務。1979年の養護学校義務化を前後して障害をもつ子どもの普通学校への就学運動に参加。養護学校義務化反対運動を契機として結成された「札幌ともに育つ教育を進める会」の活動に参加し、就学運動に取組んできた。
30年前の私の最初の職場は、大規模施設いわゆる「コロニー」の先駆けとなった知的障がい者の総合援護施設「道立太陽の園」です。
当時の「終生保護思想」に格別の意見も持たずに、障がい者の福祉が「入所施設」しかなかった時代に、「大規模・多機能」を「先駆的」とした事に惹かれての職場選択でした。しかし、全道からの障がい者の受け入れを担当して初めて、入所する当事者と保護者の苦悩を知る事になります。まもなく1979年、教育における義務化の完全実施による養護学校の設置が行われます。当時、太陽の園でボランティアとして地域の就学前の子どもを「地域の保育所・学校」に通学させる活動をしていた私は、施設職員の組織として養護学校の義務化のあり方に対して反対の立場で「意見書」を発表することになります。この時の教育・福祉・行政の人たちの強い抵抗が、「地域で暮らす」ことへのその後の私のこだわりになります。
その後、国際障害者年の前年に私は太陽の園を辞めて、人口5千人ほどの道北の町の施設づくりに関わりました。施設から出て地域で暮らすということの実践と地域で「共に暮らす」ことの実践を創ることが私の課題でした。障がい者と共に「地域を創る」という実践から、町おこしをかねて地域の「文化」づくりや農業者と共に「無農薬農業」の推進を行い、障がい者が地域の中で果たす役割のあり方を全国的に示しました。しかし、そうした取り組みが地域の権力構造を基盤とする社会福祉法人の「枠組み」の中で実践することは法人としては「好ましくない」ことでした。
現在、私は旭川の隣町の当麻町という町で社会福祉法人を創り、知的障害者の通所授産施設「ギャラリーかたるべプラス」をこの4月に開所しました。この施設の基本的な理念は「入所施設」によらない地域福祉のあり方を実践することにあります。
2000年度より、社会福祉の基礎構造改革を柱とする新社会福祉法が制定されました。「施設福祉」から「地域福祉」へという理念が、現状の入所施設の既得権擁護を中心とする福祉法人が福祉の担い手であるうちはノーマライゼーションの理念を実現するのは困難なことである。そうした背景を理解しながら、地域で暮らす「共に生きる社会」をどのように実践し実現するかが私の課題であるといえます。
私は、70年代前半に、「教育=共育」であってほしいと語った、障害幼児の母親の言葉に感動することから、「共生・共学」を主張だした。最近では、メインストリーミングやインクルージョンがよく言われて、「個性化・個別化」が同時に強調される。私は、80年代以降、折々にアメリカでその実態を取材したが、それは「統合化の新たな分離」であった。日本でも、アメリカの流れを追いつつ、「共生・共学」のもとで「個々人がバラバラにされていく」現実が進行していると思えてならない。
つまり、「共生」が過剰に語られつつ、障害胎児の中絶や脳死・臓器移植など、“生きるに値する生命”と“値しない生命”の分断(つまり優生思想)が進行している。私は、この状況に問題意識を集中させながら、私も関わってきた子供問題研究会活動の経過と現在を語りたい。私の昨今の関心は、「働けなくても町中であたり前に生きる」ということである。そのことはどういうことかを、同研究会が経営、運営する定食や“こもん軒”の話題を紹介しながら考える。
関連著書に、『俺、普通に行きたい』(子供問題研究会編、1974、1976明治図書)、『「障害児」観再考―「教育=共育」試論(正・続)』(共著1976、明治図書)、『心理テスト・その虚構と現実』(共著、1979、現代書館)、『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』(共著、1980、社会評論社)、『「障害児教育と人種問題―アメリカでの体験と思索』(1982、現代書館)、『「障害児の教育権」思想批判―関係の創造か発達の保障か』(1986、現代書館)、『「早期発見・早期治療」はなぜ問題か』(共著、1987、現代書館)、『共生・共学か発達保障か―80年代日教組全国教研の争論』(1991、現代書館)他
養護学校義務化の前年(1978年)、私は養護学校教員になった。
現在は市内の小学校で担任をしている。
78年のとき、「障害」のある子もない子も共に生きる地域社会・学校をつくることをめざす「札幌共に育つ教育を進める会」の結成に参加する。障害のある子の就学では、親子の希望は尊重されるようになったが、いったん普通学級の中で混ざり合っても、「この子のため・・・」という思いや説得で、分離教育の扉が、いつでも開いてしまう現状はなかなか変わらない。
昨今、「教育改革に遅れることなく、取り組もう」というような波が、見える形、見えない形で打ち寄せてきて、それに流されないように、心がけて日々を過ごしている。
自分のことに立ち戻って考えると、以前は障害者の友だちがいたが、最近はいない。それはなぜなのか・・・。これが、このテーマに関わる自分の課題の一つだ。
6月の北海道は、一年中で一番いい季節です。ビロードのような柔らかな風、白や紫のライラックの花と香り、ポプラの木の葉が鳴る音、7時過ぎまで明るい夕方などなど。私たちは、長い冬が終わり草や木や花が一斉に躍動するこの季節に、「一年はこの日のためにあるんだ」と感動します。
さて近代の北海道の歴史は、と振り返ると、植民者、移住者である私のような和人は、無邪気にこの美しい大地と海、そのゆたかな恵みを感謝するわけにはいきません。
かつてアイヌ民族の自由な大地=アイヌモシリであった北海道が、アイヌ民族に対する侵略、搾取、差別、強制同化政策の歴史によって塗り上げられているからです。幕末期のアイヌ民族に対する幕府と松前藩の支配は、今風にいえばエスノサイド(民族の絶滅)を計ったものでした。この言い方は決して誇張ではありません。私は、幕末の大旅行者、地理調査者、松浦武四郎の日誌を読んで、『静かな大地―松浦武四郎とアイヌ民族』という本を書きました。松浦武四郎は、アイヌの労働能力のある男女をコタン(村共同体)から強制的に引き離して、石狩浜や利尻、礼文の島などの漁場で死ぬまで酷使し、彼ら、彼女らが家庭を営み、子供を作ることを許さなかった事実を記録しています。そのため人口は激減し、とくに日本海沿岸のアイヌは、ほぼ絶滅させられました。私がいま住んでいる小樽を含め、昔はアイヌのコタンがあった瀬棚とか余市とか石狩、厚田、天塩、稚内などには、今日、もとからのアイヌの居住者はきわめて少なく、北海道ウタリ協会(やがて北海道アイヌ協会に名称を変更することが決まっている)の支部がありません。
私は、日本社会臨床学会第2回横浜大会での講演でも、アイヌ民族との出会いやその文化について述べましたので、それと重複する話は避けたいと思っていますが、ごく近い過去と現在の状況についてはぜひお伝えしたいと思います。
最近、少しずつですが日本国家史のなかのアイヌ民族史ではなく、アイヌ民族を主体として見た歴史研究が現れてきました。アイヌ史を日本国家の内部からしか見ない見方をやめれば、シベリア沿海州、サハリン、千島列島、カムチャツカの広大な地域に居住する北方諸民族の歴史の枠組みが見えてきます。私たちが持ってきた常識に反して、アイヌを含むそれらの人々は交易する民であり、アイヌ民族も征服されて日本の支配下に従属させられるまでは沿海州まで出かけていって交易していたことがわかってきました。ごく最近では、オーストラリアの日本史研究者テッサ・モーリス=鈴木さんの『辺境から眺める―アイヌが経験する近代』(みすず書房、2000年)というすぐれた研究書が出版されています。日本人の研究者ではなく、オーストラリア人の研究者がユニークな成果を表していることにも、日本の歴史学の視野が問われるところがあります。
1970年代から活発になってきたアイヌ民族のアイデンティティと権利回復運動は、1980年代に、世界の先住民族が自らの奪われてきた権利の回復を主張する国連人権委員会の設けられた作業部会に出席し発言することを通じて、日本の先住民族として国際的な認知、支援を得ました。そのことを追い風に、北海道ウタリ協会は、アイヌ民族自身が案を練ったアイヌに関する新しい法律制定運動を展開し、日本政府を内外から追いつめ、権利回復へ向けて一歩前進することができました。それが、「北海道旧土人保護法」の廃止とそれに代わる「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」の制定(1997年)です。
しかし、この前進は、その先に立ちふさがる壁の厚さを示すものでもありました。
そのことについては、当日具体的にお話ししたく存じます。
もう一つの話題として、私自身の哲学的な問題意識についてお話ししたいと考えています。私は、北海道の住民運動およびアイヌ民族の生活文化とのかかわりで、環境とエコロジーについて考える機会を得ました。そして、そこからより一般的な哲学の問題へと関心を向けております。環境と地域住民との関係は、歴史と記憶、生活文化、共通感情などを含んだ複合体を形づくっています。それを私は「風景」というカテゴリーで認識論に組み入れてきました。「風景」は、人間の意識や行動の見通しの中に位置づけられた環境です。環境を「風景」として眺めるとき、人はそこに刻まれた歴史や蓄積された文化をも見ています。「風景」というカテゴリーを認識論に組み込むことは、近代西欧の主観と客観、心と物、意識と対象、人間と環境などの二項対立に立つ認識の図式を否定し、それらを、相互にたえず媒介し変化する過程にあるうシステムとして認識するパラダイムを採用することになります。そして、認識者がその内部のどこに位置するかという認識位置とその認識内容とが相互に連関し合うことになります。つまり、万人にとっての唯一の正しい真理があり、それは選ばれた特権的な思索者によってもたらされるという近代哲学の前提は成り立たなくなりました。
また、近代哲学のパラダイムは、ジェンダーの差異によるゆがみを帯びてきたことも批判されています。哲学的な思索を支える理性と論理は、ジェンダーとしての男性に主要に割り当てられた能力であるかのように見なされてきました。そのゆがみが、環境や生命の養育、介護を、哲学の領域から排除してきたと言うこともできます。その意味で、「ジェンダー」を、哲学のカテゴリーとして重視する方向を取りたいと思っています。
さらに私は、「風景」をふくむより一般的なカテゴリーとして「場所」の重要性に思い至りました。「風景」では達することができなかった論理の領域が、「場所」の導入によって開けるように思います。「場所」の論理については、西田哲学とそれを継承した鈴木亨や中村雄二郎に示唆を受けながら考えつつあるところです。
限られた時間の中でどこまで話せるかわかりませんし、社会臨床学会での話しになじまない不安もありますが、耳を傾けて下さり、批判や助言をいただければ幸いです。
昨今、かまびすしい「教育改革」とは何であるのか、そして何を目指したものであるのか。今回のシンポジウムでは、学校という場のなかで、「心の教育」という軸を設定して、考え合ってみたい。伊藤さんからは、学校のなかの「心主義」の「偏狭さ」を、社会構造を含めた視点から語って頂けると思う。また、原内さんは、現場に密着しながら、学校での子どもとの日常から一連の「教育改革」の実相をリアルに語ってもらえるだろう。そして、小沢さんは、「心の教育」問題という軸にそって、トータルに「教育改革」の中身をわかりやすく語ってくれる、と期待している。
「心の教育」問題を軸にした「教育改革」とは、子どもたちが、そしておとなたちが生き生きと暮らす内実を宿したものなのだろうか。学校がどこへ向かおうとしているのか、発題者、フロアのみなさんとともに考え合ってみたい。
発題者
伊藤進(北海道教育大学)
原内理恵(小学校教員)
小沢牧子(和光大学)
司会者
三輪寿二(茨城大学・学会運営委員)
「総合学習」がスタートする。「自ら学び、考え、主体的に判断する能力」を育むのだという。そういった力が本格的に急成長するはずの中高生の時期に、やれ髪を染めてはだめ、その服装はだめと、現実世界の中で自ら学び、考え、判断する機会を奪っておきながら、そんなことが可能か? 「個性の尊重」だという。一方で「明るく元気な子」などの排除的人間観を押しつけ、「みんな心を一つに」と全体主義的標語を掲げ、はては「個性は内面で出せ」の殺し文句で、そんなことが可能か? そして「心の教育」。子どもたちの心の中に「倫理観」や「思いやり」、「勇気」や「正義感」を育めば、いじめがなくなるのか?
このシンポでは、こういった教育政策が、「心主義」、しかも心を「個人内現象」とだけ見て、「関係現象」であることを無視する狭い「心主義」に立っていること、そうして私たちの社会における関係性の危機的状況を隠蔽してきたことをみる。そして、その危機には、日本社会がおかされてきた経済成長至上主義という病が大きく関わっている、大人社会は自らの病を隠蔽するために子どもと学校をスケープゴートにしてきた、そんな考えを述べることにする。
この頃、学校で暮らす大人も子どももどうも元気がない。子どもを取り巻く悲しい話題は枚挙にいとまがないが、そういう象徴的な事象を抜きに考えても、子どもが集う場に必ずあるはずの生命力のオーラが学校から消えてきていると私の周りの教員たちは、しきりにぼやいている。
政府・文部科学省は、この学校の現状を「教育の危機」ととらえ、子ども・教職員・保護者を含めた日本人全体の「心を育てる教育」を提唱し、「個」より「公」を重視する中で、教育基本法の見直しまで視野に入れた「21世紀教育新生プラン」を掲げ、国家あげての大改革にとりかかった。これは、「心の教育」が、「勤労体験学習」「家庭教育ノートの配布」「スクールカウンセラーの導入」「『日の丸・君が代』の強制」等々で行われつつもまだまだ徹底されていない状況の中で、厳罰化した少年法を楯にいよいよ国民全体に本格的に行われることになったことを意味する。
一方、「下」からの教育改革を唱える教職員や学者たちは、教職員が自ら地域のコミュニティーづくりの先頭に立ち、地域の人々とつながって教育力を回復させようという試みを始めた。研究校では、地域の人たちとのカリキュラムづくりの打ち合わせ、地域行事への参加、「総合的な学習の時間」の「体験学習」などの授業準備に追われ、超多忙な毎日だという。
私は、「上」からの国家主義的な「心の教育」の動きに対してはもちろんだが、「下」からのこうした教育改革の動きについても、どうも腑に落ちない。「教職員がそこまでしなければ、学校は立ち行かないの?」「矛盾を生み出すシステムをつくったのはお偉いさん方なのに、なんで教職員や子ども、保護者にばかり改善を求めるの?」「私たちは、決していいかげんだったわけではないのに・・・」と思ってしまう。
「モノとカネ」が支配し、ますます弱肉強食が強まる経済や社会の変化や、経済効率優先の教育政策の中で、学校は、次々に現れてくる子どもをめぐる「問題」に喘いできた。でも、そんな中にあっても学校は、子どもの集まる場所として、放っておくと確実にバラバラになっていく地域の子どもや保護者の関係を必死に紡いできたのではなかったかと。
私は、現場で苦しむ子どもたちや教職員・保護者の切なる叫びを代弁したい。そして、大人も子どももあたりまえのことをあたりまえに感じ、互いに本音を言い合える学校づくりにとりくみ、なんとしても学校に生命力のオーラを取り戻したいと思う。
今回の社会臨床学会のシンポジウムでは、北海道の小学校の現場から見た私なりの精一杯の現状分析と、その解決策を述べてみたい。現場の直感は、案外、的を得ていることが多いものだと自分に言い聞かせながら・・・
神戸市・長田区役所勤務のある公務員のかたが、震災から5年を経た神戸について、雑誌で次のように語っている。「神戸新聞で連載されている震災5年の特集の見出しをみると、『きずな』とか『心の問題』『人の和』というような抽象的なものが多い。これは人々の暮らしの内実が復旧に到っていないということの裏返しではないかなと思いますね」。きっとその通りなのだと思う。現在の学校をとりまく「心の教育」も同様に、子どもたちの暮らしの場である学校が抱える問題を、抽象的な文言によって覆い隠す役割を果たしているのだろう。1995年以降、学校へのカウンセラー派遣事業や「心の教室相談員」とともに広まった「心の教育」だが、「教育改革国民会議」の論議あたりからは「心理」から「道徳」へのシフトがはっきり見られる。柔から剛へ。学校現場での子どもに対するこの二刀流管理はいつものことだが、現時点での新たな能力主義と選別のもとで、「心」の強調はどのような意味を持っているのだろうか。その問題に分け入りながら、いま学校はどこへ向かっていくのか、なにをなすべきなのかを論じ考え合いたい。