社会臨床学会は、臨床心理学的な営為に対する自己点検を、臨床心理学会改革路線からの継承テーマとして位置づけ、近年の心理ブームなどに見られる社会の心理主義化に対しても批判的な検討を行ってきた。最近になって、社会の心理主義化に対する批判的言説があちこちで急速に展開されつつある。いま、もう一度、社会臨床学会での心理主義化批判を問い直していきたい。
中島浩籌(運営委員)
昨年、「心理主義」や「社会の心理学化」といった言葉をタイトルに付けた書籍や雑誌論文がいくつか出版された。そして社会臨床学会の書籍、論文を引用する本もいくつか出ている。「心のノート」が配布されたことを契機として、心理主義への疑問が広がっていることが背景にあるのだろう。また、小沢牧子さんの『「心の専門家」はいらない』の影響もあるに違いない。
私たちの問題提起が少しは伝わったのかとうれしい気持ちにもなるが、斎藤環さんの『心理学化する社会』などを読むと不安にもなってくる。社会の心理主義化を批判しながらも、逆に心理主義化を押し進めていくような内容になっているからだ。我が身を振り返って、私たちの心理主義批判は心理主義を押し進めるような形になっていないだろうかと思ってしまう。
ここでもう一度、私たちの心理主義批判はどのような視点からなされてきたのか、あるいはなされようとしているのか、様々な心理主義批判の流れとの関係で捉え直していった方がよいだろう。総会当日はこういう角度から議論のきっかけとなるような発題ができればと考えている。
心理主義化がすすむことで何を得ていくのか
戸恒香苗(棟大病院小児科心理相談員)
以前よく「カウンセラーってこれからの社会に必要な仕事ですよね」と同意を求められることが多かったが、最近はそんなこともきかれなくなった。また、TVで事件が起きるたびに「心のケアの必要性」の連呼があったが、こちらも耳慣れたせいなのかほとんどきくこともない。心のケア、カウンセリングが色あせてきたのか、それともしっかり生活の中に入りつつあるのかどちらなのだろうか。
先日、相談室でのこと。あるお母さんが、子どもの友達のお母さんに偶然廊下で会ってしまったとびっくりした顔で入ってきた。それもかなり親しく、お互いの家族の悩みを話す仲だという。それぞれ家族に深刻な問題を抱えている。だからこそまた誰よりも親しかったのだろうと思うが、お互いがこの相談室に来ることを明かさずにいたことに、私は少なからずショックを受けた。話していくうち彼女がそれはそれと割り切っているわけではないことに安心したのだが、自分たちの関係を越えて相談に行くことによっと後ろめたさがあったと考えたい。
大学病院の法人化の中で、小児科では心理をどう使っていくか問題になったようで、病棟の子供たちへの心理的サポートにスタッフとして積極的に関わるように要請されている。患者さんへのサービスなのだが、病、身体のことは医者が、生活、心は心理が見るという分業が始まっていく気がする。また、遺伝子診断の立ち上げの準備が進んでいて、心理スタッフへ参加呼びかけがあった。治療がないのに診断だけが先行し、医者と患者さんの仲立ちの仕事をすることになる。心理を入れることで、サービスの体裁が整うことが必要なのだ。心理は先端医療をスムーズに行う役割を担い、衣料の側の声を代弁し、患者側の声を吸い取るだけではないのか。サービスと称するこれらの動きの背景に一つひとつ引っかかりながら、これが病院の心理主義化かもしれないと腹を立てている。
「学の介入」から「表現」へ
斎藤寛(秀明大学)
教育をめぐる議論の一方の核には、「再生産論」と称される、社会階層分化の世代間再生産装置としての学校教育を分析する社会科学がある。この議論は構造分析の“静学”と言うべきものであって、「お話はわかりましたが、で、それで?」と言われるとウッと言葉に詰まるようなところがある。これを“再生産論のアポリア”と呼ぶ。
ちょうどそれとは正反対の側に、「社会」ではなく「個人」の「心」への着眼から出立する「心理主義」的な議論群がある。最近、この国の教育政策においても、学校をめぐる諸問題への処方箋としてスクールカウンセラーの導入が推進されるなど、“役に立たない社会科学よりも役に立つ心理学を”というのが時代のモードとなっているようだ。しかし、「心理主義」の議論群にも多くの難点や限界が見出され、“基軸は定まりました。あとはハウ・トゥのあくなき探究です”という話になだれこむわけには、とうていゆかない。
“再生産論のアポリア”と「心理主義」の議論群の難点と、この双方を串刺しにしてその先の眺望を得ようとする時、ひとつの重要な手がかりとして、「表現の奪還へ」ということがあるのではないか、ということを言いたい。そこでは、“こんなにも生きにくい私”を専門家に見て(診て)もらう関係に依存せず、社会科学を糧として“「私(たち)」を見る「私(たち)」”を立ててゆく自律的事故救済への方位が望見されるはずだ。
四人の発題者たちの発題要旨を読んでいただけると分かるが、教育基本法「改正」の動きは、この時代、この社会に暮らす私たちにとって、ただならぬ問いかけと警告を発している。例えば、時代は、「戦争への準備」に向かっていないか、少数の支配層と多数の被支配層を作り出すことに躍起になっていないか、教育基本法「改正」の動きは、「戦後民主主義教育」の総決算である側面と、戦後教育も主張した「教育主義」をさらに徹底する側面の両方を露呈していないか、と。司会を担当する者には、例えば、こんな問いが思い浮かんだのだが、とすれば、本学会運営委員会が、教育基本法「改正」の動きをめぐるシンポジウム・タイトルで「教育基本法『改正』になぜ反対するか」と、そのとるべき態度、方向性を明示したことは妥当であったと、励まされている。
このシンポジウムでは、四つの発題に耳を傾けながら、「戦後の社会・教育」を振り返り、「今日の時代・状況」を読み解き、「私たちの暮らし」を問い直し、そんななかで、社会と学校のあり方を共々に探りあいたいと願っている。
教育基本法「改正」―戦後公教育の〈構造改革〉として捉える
岡村達雄(関西大学)
敗戦後、国家的政策課題として行われてきた「教育改革」は三回ありました。今回の「教育の構造改革」は三度目になります。1971年、『46答申』による「生涯教育」構想を軸とした教育改革、つぎに1984〜87年、行政改革としての教育改革=自由化・国際化・情報化・多様化を理念とする「臨教審」=「生涯学習体系への移行」を軸とする教育改革が実施されてきました。これらの「教育改革」はいずれも教育基本法制の枠組を前提にするものでした。これに対して、今進行中の教育改革は、第一に教育基本法制の枠組をかえるようなめんがあること、第二には、グローバル化という要因に規定された面をもっていること、この2点においてこれまでと相違しています。
教育基本法の「改正」は、こうした教育改革と不可分であります。このような観点と問題意識を踏まえて、「問題としての教育基本法」について、何が問題なのか、もし「改正」になればどうなるのか、さらにこうした事態において、何をなすべきなのか、それらについて提示したいと思います。
1. 教育基本法「改正」―何が〈問題〉なのか。
2. 教育基本法「改正」によって「教育」はどうなるか。
3. 「改正」に対して何をなすべきか。
「教育批判」の立場から
岡山輝明(都立夜間定時制高校教員)
昨年九月、八ヶ岳の麓で開かれた社臨の合宿で、「『教育の構造改革』と教育基本法『改正』」と題された岡村達雄氏の話を伺った。教育基本法自体にどういう問題があるのかを視野に入れて、「改正」論議に一席を投じようとするものであったと思う。しかし残念なことに、第一条「教育の目的」を法で定めたことの問題を主に論じたところで時間切れになってしまった。消化不良の胃袋を抱えたような気分であったことを覚えている。しかし幸いにもその晩、宿舎の「まさかロッジ」で私は岡村氏と同じ部屋を割り当てられ、さらに夕食後、延々と夜中の二時過ぎまで盛んに議論を吹きかける人の横で、氏の話を聴くことができた。翌朝、茅野駅まで車でお送りさせていただいたが、教育基本法「改正」論議に社臨として発言する必要があるのではないかと、助手席でも熱っぽくお話をされた。
その後11月の運営委員会で来年の総会テーマについて話し合う際に、私なりに考えて「教育改革と教育基本法の『改正』を問う」ではどうでしょうかと提案した。岡村氏が論じようとしたように、教育改革は国家社会の再編成と密接に絡む問題であり、教育基本法の「改正」、さらには日本国憲法の「改正」につながっている。たんに「日の丸・君が代」に代表される愛国心の押し付けにとどまらず、『心のノート』や性教育・ジェンダーフリー攻撃に見られるように、人々の日常生活の在り方をも支配しようとするものであることが明らかである。とはいえ教育基本法「改正」に反対する様々な運動はあるものの、教育幻想に囚われているもどかしさを感じるのも事実である。強いて言えば、あるべき教育の姿をそれぞれに思い描きながら、国家権力による「不当な支配」を批判していると言えないだろうか。そうではなく、教育そのものを批判する立場から問題を提起することが、社臨の役割ではないかと考えたのである。
運営委員会で検討の結果、総会の一本の柱として取り上げることが決まった。その後も実際にどう構成するかをめぐって議論が二転三転した。そこに社臨らしさが現れていた気がする。支配的な通念を前提に漠然とした了解に基づくのでなく、自分達の拠り所を常に問い直しながら合意を固めていく訳である。「創造的」とはこういう姿勢を指すのだろうか。
思いがけなく私自身も発題することになった。一昨年夏、神奈川県江ノ島で開かれた総会で「都立高校改革と管理強化」と題して報告したばかりである。学校の在り方を変えることで生徒・教職員の相互の関係を切断し、一人ひとりに切り分けた上で直接に国家が個人をからめとろうとする動きが進んでいることを、不十分ながら説明を試みたつもりである。そこでは今度は、エリート校とノンエリート校両極端における教育課程の違い。なぜノンエリート校に応募者が殺到するのか。また進路状況の変化に現れている高校教育の形骸化など、実態が崩れつつある一方で教育幻想が煽られ、競争圧力が高められている事態について問題を提起したい。
「教育改悪」はどこへいざなうのか
山田真(八王子中央診療所)
わたしは東京で「障害児・者」の普通高校入学運動にずっと関わってきたが、知的障害を持つ子どもがどんな高校へ何人ぐらい入ったかという事実だけを経年的に追いかけてみても、今、教育がどの方向へむかっているかがわかる。このところ、恐るべき下り坂で「障害児」が入学できなくなってきているのだ。それは石原都政下での信じられないような教育改悪のためだが、これは国の教育改悪の露払い的な役割を果たしているわけで、一言で言えば、全くあけすけな能力主義教育への転換である。このことは斎藤貴男氏が『機会不平等』の中で明確に示してくれた。
この改悪は、“戦後民主教育”の総決算なのだろうが、それはまた、戦争のなかった六十年間(1945年以降、現在まで)の総決算の始まりとわたしはとらえる。有事立法、教育基本法改悪、そして「健康日本21」や「健康増進法」に見られる“健民運動”は決して別々のものととらえるべきではなく、1940年前後の“時局”が再来したととらえるべきだろう。そのような観点で教育基本法改悪をとらえてみたい。
教育基本法改正案の背景
佐々木賢(運営委員)
グローバル経済化の日本で階層構造が変化した。年収一億円以上のA層が十万人、年収一千万円前後のB層が三千万人、年収三百万円以下のC層が八千万人いる。数値の違いこそあれ、この格差の構造は世界的な傾向になった。C層の貧困の原因はA層が出たことにあるが、C層の怨みはむしろB層に向けられる。なぜなら、A層の姿が見えにくく、B層は身近にいてよく見えるからである。
このきわどい状況の中で、ポピュリスト政治家(ブッシュ・小泉・石原等)はA層がさらに発展するような制作をしている。だから一方で、C層が反乱を起こさないような管理技術を考えなければならない。アントニオ・ネグリ(『帝国』の著者)はマルチチュードという概念を提唱した。単語の意味は「多数」だが、グローバル経済下では、反乱の主体となる「大衆」の意味をもち、家族を越え、国境を越え、国民意識を越え、ネットで連携し、捨て身の抵抗をする可能性を秘めている。さてそこで、C層がマルチチュードにならない管理技術とは何か。
情報管理・人口管理・コミュニケーション管理・身体管理・心の管理等のあらゆる管理が必要だが、それとは分からないような、隠された管理でなければならない。教育基本法の改正案には、その新しい管理技術が隠されていると思われる。改革案の言説を検証しながら、それを明らかにしたい。