社会臨床ニュース
第67号
2008年5月11日
発行◆日本社会臨床学会
〒310-8512 茨城県水戸市文京2-1-1
茨城大学教育学部情報文化教室林研究室
EMail: shakai.rinsho@gmail.com Web: http://sharin.jp
郵便振替: 00170-9-707357 銀行:みずほ銀行東陽町支店(普通)80113029

第16回総会へのお誘い

林延哉(日本社会臨床学会第16回総会実行委員長)

 

世の中を良くするには社会が変わらなければならない、というのが社会臨床学会の基調の考え方だと思います。具体的な問題の原因を個人に還元することを拒み社会にその原因を見出すことを基調として心理臨床・臨床心理学を批判してきた基本的な立ち位置からは当然そのようになります。

一方で、一人ひとりの人間が変わらなければ世の中は良くならないという考え方もあります。世の中を作っているのは所詮は個々の人間なのだから、ということだけではなく、そもそも一人ひとりの人間が変わることが世の中を良くすることに繋がるのだと信じないのだとすれば、皆で集まっていろんな問題を議論することの意味等何もないからです。そこでどんな議論をしても社会が変わらなければ何も良くならないのだし、そもそも議論するとは議論の中で互いが新たな発見をし、改めて自分の考えを肯定したり、否定したり、疑問に思ったり、変質したりする機会として行われるのであって、そこに参加する個々人の変化が世の中を良くすることにつながらないのであれば、そんなことをする意味はないからです。

思想家のケン・ウィルバーは、そもそも社会と個人の間に因果関係を置くのではなく、個と集団とを別々の象限に位置づける四象限理論を提唱しました。「鶏が先か卵が先か」で議論の浪費をするよりも、ともかくも鶏も卵もなのだからそれらの全てに目を配って出来ることからやっていこうよ、という、いかにもアメリカ生まれのプラグマティックな発想がそこにはあるように思えて、僕は共感しています。今、地球上には、大から小まで、おかしなこと、危機的なことを探すのに、何の苦労もありません。個人も悪ければ社会も悪い、食べ物も悪ければ、教育も悪い、医療も悪ければ、福祉も悪い、虫歯も悪ければ、口も悪いです。手を打つのにどこが良くてどこが悪いなんてことはありません。多分、何をやっても今よりは良くなるか、せいぜい変わらないかです。良さそうなことはやってみる、あるいはヤバそうだなと思ったらせめて何もしない、踏みとどまる、そんなことを個々の人間が出来る範囲でやっていけばそれでも充分いいのではないかと思います。無理をしてもしなくてもいずれは滅びるのだから、そんな諦観もあって、そんな風に思います。

どうせ駄目なのだから、せめて、やれることをやれるだけはやっておこう、そんな風に思ったりします。

ポストモダンの季節は私達に二つの道を示してくれたと思います。ポストモダンの思想が教えてくれたように私達には多様な相対的な価値だけがあるのだとすれば、そしてその間に優劣を付けられないのだとすれば、私達は「今よりはまし」という基準に従って永遠に改善活動を繰り返す、ただしその結果「全体としてより良くなったり」は絶対にしない、永遠の循環の中を生き続ける=永劫回帰し続ける、そして何かの拍子に突拍子もないことによってその繰り返し自体が滅ぶような事態に陥って滅亡する、というような道と、私達は今よりも成長して今よりもより良い世の中を作ることが出来るのだと信じて行動する道、です。すなわち、相対的ではない、今よりもより良い状態が存在すると信じて行動する道です。どちらが正解なのかは分かりません。正解があると考えるのは後者の考え方であり、正解等そもそもないと考えるのは前者の考え方です。しかしはっきりしているのは、私達が世の中を良くしたいと考えて行動する時には、「あっちのほころびを繕えば、こっちがほころびる」という状態を当たり前と考えて、ほころびを繕い続けて、(より良くなることはないけれど)偶然発生するかもしれない「取り返しのつかない事態」だけは避け続けるべく行動し続けるのだと自覚して行動するか、人間は今よりもより良い状態に成長することが出来ると信じてその状態に成長するべく試行錯誤しているのだと自覚して行動するか、のどちらかの立場で行動しているのだし行動するしかないのだということです。そして、ふたつの考え方は根本ではまったく異なっているけれども、その都度、その時々で見るならば、具体的には同じ方向を指向し、同じ行動をしているということがしばしばでしょう。だとすれば実は、そこにはそれほどの違いなど無く、ともに歩める可能性の方が多分に大きいはずです。ポストモダンの時代は、そんなことを私達に教えてくれました。

私達は、私達が行動するために議論をしたいと思います。議論のための議論ではなく、私達が啓発され元気になれるような議論をしたいと思います。議論が殴り合いであっても励まし合いであっても、そこではそれぞれの人が元気を得られるような議論がしたいと思います(ちなみに、今回のシンポジウムのひとつでは「健康」概念を疑う議論も行われると思います。「元気」などという言葉も、もしかしたら問うべき言葉のひとつかもしれませんが、でもやっぱり「元気」という言葉は、僕にはリアルな言葉です)。

今回、運営委員会内の輪番で僕が総会実行委員長を担当します。名ばかりで実際には他の運営委員などの方々のお世話・力で実行できているのですが、今回実行委員長をやっている人間がどのような人間なのかという自己紹介がてら、この巻頭言を書かせていただいています。

第16回総会の、ご参加の皆さん全員が楽しんで過ごしていただけることを願っています。

 

日本社会臨床学会第16回総会

〜『社会臨床の視界』(全4巻)刊行を記念して〜

 

日時:2008年6月14日(土)・15日(日)

場所:財団法人大学セミナーハウス 八王子セミナーハウス

所在地 :東京都八王子市下柚木1987-1

アクセス:JR八王子駅南口からバス(南大沢駅行または由木折返場行・所要時間25分)、または京王線北野駅北口からバス(平山城址公園行または南大沢駅行・所要時間15分)、または京王相模原線南大沢駅からバス(北野駅北口行または八王子駅南口行・所要時間30分)で、いずれも「野猿峠」下車。すぐ近くにセミナーハウスの看板と入り口が見える(バス停から徒歩5分程度)。

Tel:042-676-8511(代表) e-mail: info@seminarhouse.or.jp

HP:http://www.seminarhouse.or.jp/index.htm

参加費:2000円(14日夜の交流会参加費は別途3500円となります)

 

日程およびプログラム:

6月14日(土)

11:00 受付開始

11:30~12:30 定期総会

13:30~17:30

シンポジウムI「健康不安」を捉えなおす〜食育・健康増進・禁煙から〜

話題提供者

山田真(八王子中央診療所)・高橋久仁子(群馬大学)・八木晃介(花園大学)

司会

中島浩籌(学会運営委員)・梶原公子(学会運営委員)

17:45~19:15

記念講演 今、共に生きるを考える〜街・仲間・活動の中から〜

演者

根本俊雄・荒関繁信・荒関司津(NPO法人SAN Net青森)

19:30〜21:30 交流会(八王子セミナーハウス内にて)

 

6月15日(日)

10:00~16:30(昼食・休憩12:00〜13:00)

シンポジウムII 福祉の現在とゆくえ〜特に、国家・公共・共生をめぐって〜

話題提供者

竹内章郎(岐阜大学)・脇田諭司(三重県職員)・篠原睦治(和光大学)

コメンテーター

林恭裕(北翔大学)・天野誠一郎(東京・国立市 在宅障害者)・林延哉(茨城大学)

司会

三輪寿二(学会運営委員)・川英友(学会運営委員)

 

交流会、食事及び宿泊について:

  1. 14日19:30より現地にて交流会を予定しています。
    参加費は3500円となります。当日の参加も可能ですが、準備の都合からは、事前にご参加のご意向をお知らせいただけると幸いです。
  2. 14日・15日の昼食は会場の食堂にてお取りいただくことが可能です。
    ただし、こちらは人数分を用意させていただきますので、事前にお申し込みが必要となります(一食700円)。会場の食堂以外には近隣に昼食を入手できるレストラン・商店等がありませんので、ご予約いただかない場合は、ご持参いただくのが良いと思います。
  3. 今回の会場となる八王子セミナーハウスは宿泊が可能となっています。
    宿泊も事前のお申し込みが必要となります。部屋にはシングル・ツイン・複数人部屋があり、応じて宿泊料金が違います。各部屋には大小タオルはありますが、歯ブラシ、浴衣、ドライヤー等は持参する必要があります。

上記(1)交流会、(2)昼食、(3)宿泊の予約は学会にて取りまとめて行います。

12頁の申し込み用紙(本ページ末の)をご利用の上、ファックスにて0480-61-3373までお申し込みいただくか、同様の内容をメールにてsokai16@sharin.jpまでお申し込みください。

申し込み用紙は交流会・昼食・宿泊共通となっていますので、該当する部分にチェックをお入れください。また、学会よりご連絡をさせていただく場合がありますので、連絡先を必ずご記入ください。

宿泊ご希望の場合の部屋はシングルから順次埋めていく予定にしていますが、ツイン、複数人部屋をご希望の場合はその旨お書き添えください。宿泊料金は部屋のタイプによって変わりますが、約5000〜7000円程度になります。宿泊料金についてはお申し込みを頂いてから個別に連絡させていただきます。(なお、当日キャンセルの場合は100%、前日〜7日前の場合は20%程度のキャンセル料が必要となります。キャンセルされる場合は、必ず上記連絡先までお早めにご連絡ください。)

お申し込みの〆切は5月28日とさせて頂きます。

費用は、当日会場にて清算させていただきます。

なお、総会への参加自体には、事前の申し込み・予約等は必要ありません。

例年通り、会員・非会員を問わず、どなたでもご参加いただけます。

当日、直接会場にお越し下さい。

記念講演・シンポジウム 発題者・発題主旨紹介:

記念講演 「今、共に生きるを考える〜街・仲間・活動の中から〜」

 

根本俊雄・荒関繁信・荒関司津(NPO法人 SAN Net青森)

 

1974年頃だろうか、(「する側」「される側」)〈共に生きる〉という言葉にぼくは出会う。学生だったからか、問題提起は新鮮だった。76年に就職して、生活保護ケースワーカーになると、途端に悩んだ。自分の足元に問題がまとわりつき、呪縛にあったように動けない数年間を過ごした。

11年前、青森に来てからもいろいろ苦労があったが、今は、精神障害者が利用する就労継続支援事業所を運営する。ぼくは、NPOの「理事」であり、事業所の「管理者」である。

事業所を利用している荒関繁信さんとは10年前に知りあった。彼は事業所とグループホームの「利用者」で、NPOの同僚「理事」である。しかしそれ以上に、隣に住む隣人で、いっしょに苦労を重ねた仲間であって、病気を研究する年若い師でもあるかもしれない。彼はこの期間、奥さんとなる司津さんと知り合い、両親のもとを離れて一人暮らしを始め、結婚した。ぼくと彼等の〈関係〉は並行し、またがり、重層する。これがぼくには心地いい。ずっと若い頃に、ぼくが願っていたことだと思う。

一方、日本社会の10年間は、市場原理がぼくたちの日常を席巻した。本州の最北端の貧しい県で暮らしていてもそれはじわじわ感じる。一人ひとりが離れ離れになり、「フリーター」がいて、かつてなら「される側」といわれる人が事業主になる。NPOがあり、ベンチャービジネスがあって、個人商店が次々とシャッターを下ろしている。

〈共に生きる〉という言葉には、船底についた富士壺のように、多くの意味や文脈が染み付いてしまったが、それでも、現代的な状況を背景に、新しい関係やつながりが切実に求められている。このような今に立ち、ぼくと荒関さんたちの日常から、〈共に生きる〉ことをもう一度考えたいと思う。誰もが個人であり、関係の中に生きているのだが、二つの側面をまたぎながら、人間と人間がつなぎあおうとする営みの中には、いつも新たな課題が浮かび上がってくるのだから。

 

シンポジウムI 「健康不安」を捉えなおす〜食育・健康増進・禁煙から〜

 

昨年12月8日に「『健康不安』の背景を探る〜健康増進法、食育基本法を中心に〜」をテーマに学習会を持ちました(『社会臨床雑誌』16巻1号収録)。ここではなぜこれほど「健康」が問題にされるのか、誰が問題にするのか、それは私たちの生活にどのような影響を及ぼしているのかという問題意識のもと、「食育」という当学会では始めての切り口を交えて話し合いを持ちました。そのなかで「食育」が登場した背景には新自由主義や新保守主義の台頭が関係し、国家が個人の(食)生活、習慣、心理、健康、身体により強い関心をもち、ここに焦点を当てて〈健全〉な食生活と健康増進を図っている動きのあることなどを確認しました。

総会のシンポジウムでは、そこでの話し合いをもとに健康幻想や健康不安の作られ方や語られ方、そこでの問題点について、シンポジストのかたがた独自の視点から話していただきます。

山田真さんには予防接種や健康診断の功罪について語っていただきながら、健康増進をせまる「健康強制社会」の実態、そして「医学のグローバリズム」の問題について話していただきます。高橋久仁子さんには「食育」が実践されている実態やそれが果たしている役割、またフードファディズム(食べ物が健康や病気に与える影響を過大/過小に評価したり、むやみに信じ込んでしまうこと)について語っていただき、「食と健康」について問題提起していただきます。さらに、八木晃介さんには、禁煙をめぐる言説やメタボ・バッシングの推移を追っていただきながら、たんに病人をなおす以上のことをするようになっているヘルスケア・システムについて、そして「治療国家」の意図について語っていただきます。

それぞれのシンポジストの問題提起やお話しから、「食・健康・治療」についてこれまで当たり前と思われていたことをひっくり返すような「気づき」や驚き、発見があれば、そして日常生活での健康不安を考え直すきっかけになればと考えています。(司会 梶原公子・中島浩籌)

 

話題提供1 「健康強制社会」を考える

山田真(八王子中央診療所)

 

新自由主義の時代である。この時代を象徴するキーワードは「自己責任」だと言われているが、国は国民に対して「国家にとっての荷物にならぬよう銘銘が日々努力せよ」と強制する。健康もまた強制の対象で、国民は「健康を保持すべく日々努力せよ。病気になったとしたらそれは個人の失敗だから個人で責任をとるように」と申し渡される。これは「健康強制社会」であり、具体的には「健康日本21体制」という。この時代は新しい優生主義の時代でもあって、かつてナチスドイツで使われた「価値無き生命」という概念が蘇っている。

画像診断などの進歩によって胎児を精しく見ることができるようになると、ある程度以上の「異常」を持つと診断された胎児は「生まれる価値がない」とされて、生まれる前に捨てられる。脳死と判定された人は他者へ臓器を提供することでしか価値を認められない生命であり、遷延性脳障害の人なども価値無き生命とされる。価値無き生命の範囲はどんどん拡大し、2008年から導入された後期高齢者医療制度では75歳以上の人たちもまた価値無き生命と判定された。価値ある生命と価値無き生命を選別し、健康を善、病気を悪と断定して病気の廃絶を目ざす医学はアメリカの医学の特徴であるが、今、そのアメリカ医学が世界を席巻する様相を呈していて、これは正に医学のグローバリゼーションである。

リン・メイヤーの『医療と文化』という興味深い著作を紹介しつつ、この「医学のグローバリゼーション」について考えてみたい。

 

話題提供2 健康関連食情報とフードファディズム

 

高橋久仁子(群馬大学教育学部)

 

食物や栄養が健康や病気に与える影響を過大に評価したり信じることをフードファディズム(Food Faddism)という。過大か適正かの判断は難しく、過小評価もまた問題であるが、体への好影響や悪影響をおおげさに言い立てることも問題である。健康に関連する食情報にはフードファディズムが限りなく紛れこむ。

フードファディズムは時に食生活や食事療法を混乱させ、健康被害をもたらし、詐欺的商法に悪用される。「体によい」という食品を次々食べ足して太ってしまう人がいる一方で「体に悪い」という食品を排除して栄養不良に陥る人がいる。ある「健康食品」の「治療効果」を妄信し、適切な医療の受診機会を逸する人もいる。患者やその家族を標的に高額の「健康食品」を売りつける詐欺的商法も後を絶たない。病む人の弱みにつけ込む商法の片棒をフードファディズムが担いでいる。

手軽に健康を得たい消費者。飽和状態の市場においてとにかく買ってほしい食の提供側。食そのものではなく「食の情報」を販売するマスメディア等の業種。三者三様の思惑が絡む食の周辺には「フードファディズム」があふれている。

食と健康は深く関わるが、食だけが健康を支配するわけではない。食で守れる健康・防げる病気は少なくないが、食の力の及ばない疾病も多々あることを忘れてはならない。「そこそこの健康」を求めて「ほどほどに食べる」程度でよしとしたい。

 

話題提供3 「健康」が声高に語られる時

 

八木晃介(花園大学文学部)

 

健康が声高に語られる時は、いつも、要注意です。社会学者B・グラスナーが「ある社会のすべての層がからだのことに心を奪われているときには、明らかに健康以外の何かが危機にさらされているのだ」と述べているところは、じつに示唆的だと思います(小松直行訳『ボディーズ』マガジンハウス)。

医療社会学の領域には「逸脱の医療化」という概念があります。それは、社会がきめた規範的な行動の違反者とおぼしき存在に対して医学的なレッテルが適用される事態ないし過程を意味します。それはまた、医者や医療が社会統制のエージェントとして社会防衛的な危機管理にのりだす事態をも意味します。こうした逸脱の医療化傾向は、確実に「社会問題の個人化」をひきだしますし、必然的に「病気の自己責任論」にもリンクしていくことになります。

如上の状況をはっきりと浮き彫りにするのが、最近の禁煙ファシズムやメタボ・バッシングの推移です。健康が不健康状態の不在以上のものであるとする健康観(単なる観念ではなく、政治的強制の域にまで達しているのですが)のもとで、ヘルスケア・システムはたんに病人をなおす以上のことをしなければならなくなり、実際、喫煙やメタボに代表されるような新たな「病気」の発見と治療(医原病としてのマッチ・ポンプ方式)に邁進しているわけです。しかもそれは、いまや高齢者や障害者を主対象に、優生思想を軸にした「民族浄化」の水準にまで到達しつつあると言わねばなりません。

私は、今回の報告において、喫煙とかメタボとか、なんとなく聴衆のみなさんに笑われてしまいそうな、つまり、どうでもよさそうな話題にこだわりながら、「治療国家」の悪意、否、殺意のホンネを読み解く作業を行いたいと考えています。うまく話がすすめば、おおいに笑ってください。

 

シンポジウムⅡ 福祉の現在とゆくえ~特に、国家・公共・共生をめぐって~

 

シンポジウムⅡは、国家、公共、共生という枠組みから福祉を捉え直そうとする三人の話題提供を受けて、それらをコメンテーターの方たちに揉んでもらう構成になっている。話題提供の三人の切り口は異なるが、新自由主義の流れの中で、従来の福祉・社会保障が破綻してきている、という認識はおそらく共通している。「弱者」切り捨て路線が公然化したという認識である。これに抗するために、私たちは「福祉」とは何なのか、それは誰がどこが保障し支える代物なのか、そうした基底的な問いを考えなくてはならないのではないか。これが司会者の問題意識の一つである。

このシンポジウムは、「シリーズ社会臨床の視界」第三巻『「新優生学」時代の生老病死』(現代書館)の議論の一部を軸にしながら企画した。話題提供者は三人ともこの本の執筆者でもある。できれば、併せてシンポの前後にお読みいただきながら、一緒に考え合っていきたいと思っている。(司会:川英友・三輪寿二)

 

話題提供1 「社会権的なものの『復興』」

 

竹内章郎(岐阜大学地域科学部)

 

新自由主義—単純な市場原理主義ではなく、財政的には小さい場合もあるが強力な国家権力が内在した市場至上主義—が、産育やコミュニケーション自体をも市場(金銭)化する現代では、市場・資本(≒抑圧的国家)の外部の確保と市場・資本の規制は必須だ。また市場の外部の核である福祉国家的なものあるいは社会権的なもの(社会保障権+労働権+α)は、優生学、特に商業的優生学commercialized eugenics、更には差別・格差・不平等全般への対抗上も重要である。

これら社会権や福祉国家の経済の基本は、市民権の場合(市場・資本における等価交換+搾取放置)とは異なり、累進課税と福祉・公共事業に典型的な不等価交換である。そして社会保障費削減や労働法緩和等の社会権や福祉国家の破壊を阻止し、それらの「復興」を図ることは、単なる日常生活維持を超える世界史的人間学的意味も持つ。

ちなみに歴史を遡ると、例えば『人権宣言』—これは誤訳で、『人及び市民の諸権利宣言』と訳し、十全な権利主体が市民のみだったことを理解すべき—六条の個人主義的・経済主義的な市民権は、能力主義的で優生学全般に通じている。他方この市民権の難点の解消は、伝統的民衆的な共同性・平等思想を除けば、19世紀末からの市場の外部や社会権に求められるが、社会権は、集団的権利主体論に基づき財産や能力格差を問わない権利である。社会権や市場の外部は、仏革命的大事件などを伴う市民権ほど目立たないが、深部では「根底的革命の必然性の意識がでてくる階級」、「富と教養の世界(市場≒市民社会)から排除された存在」(マルクス)とも接点があり、このことが優生学への対抗上も意味を持つ。

確かに既存の福祉国家にもパターナリズムや抑圧があり、その市場・資本維持機能も問題視すべきだ。だが、これら難点の克服と既述の市場の問題の克服との一体性こそ重視したい。なお表題は、新自由主義による社会権破壊に関わるが、従来の福祉国家の単純な延長を超える将来展望も意図する点ではカッコ付きの「復興」なのである。

 

話題提供2 新たな共同性の回復と社会的連帯の再生を目指して

 

脇田諭司(三重県職員)

 

私の実存のゆらぎと、この国の情況や置かれている同時代性の時間・空間の場の中で、今何を考え、どこへ眼差しをおこうとしているのか、どこへ行こうとしているのか、私自身が問われ続けています。

他者との関係性を拓いていく「その他の(親密な)関係」を抵抗の基軸に据えて、福祉国家の捉え直しとともに、公共性や公共圏を根本的に描きなおし、親密圏と公共圏のはざまによる越境から、新たな共同性の回復や社会的連帯の再生を目指したいと考えています。

その実現に向けては、「有効性ということばかりでなく、自らの行為の無償性を貫くことで、かえって多数派に転換できる」というふうな「名づけようのない」切り口で問題構造の核心を衝き、親密圏が転化する形で生まれる「対抗的な公共圏」を構想しながら、新たな共同性の内実に迫りたいと考えています。

今回、発言の機会を与えていただいたので、自らの問題意識を語りながら、私の足元の課題でもある「障害者自立支援法」のトータルな問題性にも言及して、「新しいケアの形、福祉の根源的な捉え直し、当事者性、マイノリティリサーチ、誰も排除しないこと、ゆるやかなネットワーキング、水平な連帯関係・共犯関係……」などの言説を中心に、皆さんとの深い議論の中での触発を期待しています。

真のコミューンは、人間の関係性の絶え間のない流れによってはじめて存立するものであり、そこから「システムを超えたシステム」を創り上げることを目指していきたい、自分の声は聞こえるわけですから。

 

話題提供3.「福祉国家」と「共生」を問いながら

 

篠原睦治(和光大学)

 

ぼくは、『「新優生学」時代の生老病死』の編集を担当し執筆に関わりながら、脇田さん、竹内さんなど、他の著者たちと共に、ひとつの軸として、「福祉国家」の現在を批判し展望し、一方で、国家と地域・家族のはざまにおける「新たな共同体」の可能性を考えていたように思う。ぼくの場合、当該書においても、私たちの暮らしの一端を「福祉」でくくり、そこを「共生」で理念化することに警戒的である。そこでは、「福祉国家」が後退し「福祉」の産業化が進行し、一方で、地域・家族の相互扶助、自己責任・自己決定が期待されている。そして、「福祉」の諸制度・施策は、暮らしの困難をまずは家族中心主義・個人還元主義的に解くことを求めており、そこに補完的にしかも不十分に位置づいている。

といって、ぼくは、福祉国家の変革、新しい共同体の創造をただちに訴える気持ちにもなれないでいる。もちろん、今に始まったことではないが、「国の責任」を問い質すことで「国の管理・抑圧」が裏表に登場しがちであり、「よりよい社会」を創ろうとすることで“いま、ここの”リアリティから切り離されていかないかと心配しているのだ。

ぼくは、喜怒哀楽、貧富、いずれもあってしまうシャバの現実をともどもに生き抜きながら、その上で「国の責任」を警戒しつつも要請し、それゆえ矛盾的で緊張的に暮らしていく他ないかなと思っている。今度のシンポでは、ぼくも関わってきた〈街の中のふつうのお店〉にこだわった「有限会社・こもん軒」の20数年を振り返りながら、なぜ福祉作業所やNPO法人にしなかったかを報告するので、ぼくの問いと迷いにつき合って頂ければ幸いである。

 

コメンテーター・自己紹介

 

天野誠一郎(東京・国立市 在宅障害者)

僕は天野誠一郎といいます。生まれつきの脳性マヒ者で、今年で53歳になります。1975年に和光大学に入学し、それまでは松葉杖で歩けていました。和光大学へ入学したのを転換点とし、自分の障害者としての歴史やその中の差別に対して自覚し、対象化できました。それをきっかけにして、その後の生き方はそういった自分の歴史をいかに周りとの人間関係の中で変えていけるかを考えてきました。もちろん、そういった方向は単一ではなく、紆余曲折もあります。障害者としての生きる方向は上から押しつけられたレールには乗らず、1979年4月から地域の街の中で普通のアパートを借りて生活を積み重ねてきました。やはり僕は、特別な収容施設や特別な障害者用の病院に入らずに生きてきました。これからも多分そういった生き方をしていきたいと思います。今回コメンテーターとして呼ばれたので参加したいと思います。よろしくお願いします。

 

林恭裕(北翔大学)

私は、1974年から北海道社会福祉協議会に30年近く勤務し、現在大学教員をしているものです。この間、養護学校義務化反対や普通学校への就学運動にも取り組んできました。福祉の現場に身を置きながら、措置から市場化へのわが国の福祉の推移を見てきましたが、最近の福祉は、機能的な面が重視され、サービス論が中心となって、当事者が見えなくなっているような感じがしています。そこには、利便性のみが前面に出ていて、当事者が主体となって獲得してきた歴史性や、それゆえの公的責任が形骸化しているのではないかと思われるのです。それと、もう一つ危惧しているのは、特別支援教育にみられるような専門家といわれるような人々がまたぞろ力を持ち始めてきているのではないか、ということです。福祉もそうでしたが。

と、こんな思いを日々感じながらいるのですが、今回、コメンテーターとして皆さんとお会いし、交流できることを楽しみにしています。

 

林延哉(茨城大学)

茨城大学教育学部に勤務し、情報文化課程というところで、主にコンピュータの使い方やウェブページの作り方等の授業を担当しています。かれこれ10年を超えました。最近はますます自分は何者なのだろうとアイデンティティクライシスに苛まれる毎日です。職場では、学生がよく話をしにきてくれるのが救いになっています。昨年は、「ゴジラと武力」についての文章を学部の紀要に書かせてもらいました。最近では『ぼくらの』というアニメにはまって全二四話を三日かけて見ました。シュタイナーが好きで独学で少しずつ勉強しています(ドイツ語が出来ないので翻訳でしか読めないのが残念です)。これからの教育現場では様々な意味で“宗教”ということが問題になってくる予感がしています。そのためにそうした方面の勉強もしたいと考えている昨今です。

 

社会臨床の視界広告_B5_モノクロ.pdf

日本社会臨床学会第16回総会 昼食/交流会/宿泊申込書

お名前

ご連絡先

住所

電話

メール

お申し込み内容

*お申し込みの項目にチェックを入れてください。宿泊の方も、食事欄・交流会欄に必要な分のチェックを入れてください。

□14日昼食(700円)

□14日宿泊(5000〜7000円)

□14日交流会参加(3500円)

□15日朝食(500円)

□15日昼食(700円)

(上記の他に総会参加費2000円がかかります)

その他、連絡事項等

(複数名でお申し込みの場合は、上記に代表者を、下記にその他の方についての上記の情報と同様のものを記載してください。)

宛先: FAX… 0480-61-3373 Mail… sokai16@sharin.jp