社会臨床雑誌第18巻第3号
2011年02月27日発行
はじめに 日本社会臨床学会編集委員会 (1)
〈論文〉
消える〈老人〉・消される〈老人〉 八木晃介 (2)
指紋の近代 山下恒男 (14)
精神会病院に置ける造形活動と患者の自己表現 藤澤三佳 (27)
変革の志操 『相互扶助論』が照射する行く手【その2】 飯島勤 (44)
家庭科の不思議 最終回 梶原公子 (59)
〈特集 『精神科セカンドオピニオン』『精神科セカンドオピニオン2』を読んで〉
特集 『精神科セカンドオピニオン』『精神科セカンドオピニオン2』を読んで (77)
精神科セカンドオピニオンの実践がもたらした衝撃 広瀬隆士 (78)
『地を這うヂゴクへの道』 江畑一起 (95)
「発達障害」という病名の用法についての一考察 湯野川礼 (106)
「発達障害」概念は問題状況を打開できるのか? 中島浩籌 (110)
〈映画や本で考える〉
「痛みとしての他者」を求めて 吉田直也 (114)
人間の「原点的関係」への探求 ロバート・リケット (117)
『関係の原像を描く』を読む 林延哉 (131)
〈ここの場所から〉
観念と現実の間(5) 佐藤剛 (146)
投稿のお願い (149)
編集後記 (150)
日本社会臨床学会編集委員会
2010年度最後の号、18巻3号をお届けする。本学会、本誌が追うべきテーマが順に見えてきた感を深くしている。ここでは、正式タイトルは「目次」にゆだねつつ、各論文、エッセイへと誘いたい。
八木晃介は、消えた〈老人〉は消された〈老人〉ではなかったのかと設問して、この問いを「敬老」と「棄老」の二重基準からなる「安楽死・尊厳死」問題から解こうとしている。
山下恒男は、西洋近代化のなかで科学的に進行してきた人間の選別と管理の問題を「ナチスの人種検査」(16巻3号)、「見世物にされた人たち」(17巻1号)、「写真の発明と近代」(18巻1号)で論じてきたが、今号では、個体識別法の「革命」としての「指紋の近代化」を検討している。
藤澤三佳は、すでに「臨床のアート」(16巻3号)を掲載しているが、今号では、精神障害者の作品と語りを、芸術療法ともアウトサイダー・アートとも括ることなく、表現者、協力者、そして鑑賞者の相互関係の中で紹介し論じている。
飯島勤は、クロポトキンの『相互扶助論』が主張する自然界および人間界の歴史に通底する連帯の原理に共鳴して既に論じだしているが(18巻1号)、今号では、それが現実社会の中でいかに実現可能かを探っている。そしてその答えは、この古典そのものから掘り起こすことができるとして熟読玩味の作業を開始している。
梶原公子は、〈家庭科の不思議〉を連載してきたが(16巻3号、17巻1号、17巻2号、18巻1号)、家庭科教育の戦前・戦後史を、国家と学校、家族・家庭の理念と現実に立ち止まりながら、批判的に振り返ってきた。今号で最終回になるが、その末尾は、「そういうわけだから、現状の家庭科であればもはやこの教科は不要というほかないのである」と結んでいる。
今日、「精神科セカンドオピニオン」が言われるようになった。このことに関わって、二冊の本が出た。これらをめぐっては、本学会の周辺でもさまざまな反響がある。特に「発達障害」の精神科医療における評価と役割をめぐっては疑問も提起されている。今回、このことで特集を組んだが、精神科医療の現場から広瀬隆士、患者会「ごかい」の江端一起、社会学的視点に立って湯野川礼、そして教育現場から中島浩籌が、論争の広がりを期待しながら、この二冊の本に触発されて、いろいろに感じ考えている。
〈映画や本で考える〉欄では、吉田直哉が、21世紀に新しく登場した「ケイタイ小説」現象に着目し、「若者の純粋な閉塞感」を読み解こうとしている。篠原睦治編著『関係の原像を描く―「障害」元学生との対話を重ねて』が今春出たが、篠原のかつての同僚、ロバート・リケットは、本書が扱った「障害者−健常者」問題を追って、時代的・社会的背景の分析とともに対話風に思索している。林延哉は、「聞こえる」者と「聞こえない」者とのコミュニケーション問題に着目して、編著者の視点を批判的に吟味している。
〈ここの場所から〉欄で、佐藤剛は、児童養護施設立ち上げから一年が経ったのを機に、この時点での「観念と現実の間」を振り返っている。このテーマは、今回で、五回目になるが、このエッセイは、これからも続く。
第19回総会に先んじて、次号の編集を急いでいる。お楽しみにお待ちいただきたい。