「本書を編むにあたって」より
「一九九〇年代に入って、カウンセリングがいわゆる大衆化現象をみせている。この現象を前にして、カウンセリングの思想と技法に疑問と批判を提起し、そこから現代社会を考えようとする立場から、本書は編まれた。
本書が作成された背景には、ほぼ三十年にわたる前史が存在している。一九六九年に日本臨床心理学会において開始された臨床心理士資格認定を問う動きの延長上に、本書が位置しているからである。
臨床心理学を主に構成している心理テストや心理治療・カウンセリングという技法は何のためのものであり、資格は誰のためのものなのかという根源的な課題を、私達社会臨床学会に集う者達は、かつての臨床心理学会からひきついでいる。一九九一年に臨床心理学会は、厚生省の意図する臨床心理士の国家資格づくりに協力すべきか否かをめぐって二つの立場に分かれ、「心の専門家」の資格づくりに反対する考えに立つ者達が、国家資格づくりへの協力の姿勢を選択した臨床心理学会から分かれて、日本社会臨床学会を設立した。一九九三年のことである。・・・・・・
社会臨床学会を発足させた後も、カウンセリングをめぐる学習会や学会誌への論文掲載は重ねられていた。一九九五~九六年にかけて学会が刊行した単行本四冊より成る「社会臨床シリーズ」(影書房)の第二巻は『学校カウンセリングと心理テストを問う』であり、他の巻にも、心理治療・カウンセリングに関わるいくつかの論考が収められている。一九九四年秋からほぼ一年をかけて、私達は「『カウンセリングと現代社会』を考える」と名づけた月一回の連続学習会を持った。とりわけ九〇年代に入って顕著になったカウンセリングの大衆化現象を、批判的に押さえておきたいという思いからである。それらの取り組みが、今回本書を編むにあたっての土台になっている。
しかし、十四年前に論じた「心理治療」が主に医療構造とのからみでとらえられたのに対し、カウンセリングは近年、生活のあらゆる領域にあふれ出しており、「する側」「される側」という図式では非常にとらえにくいものとなっていることに気づく。支配と被支配の構図が確実に存在しながら、それが見えにくくなっているのである。管理構造が「洗練」され、個人の内部にも内在化されている。したがって、カウンセリングという管理が外側に存在していると感じにくくなっている。カウンセリング批判が世の中に届きにくいゆえんであろう。しかしそれだからこそ今、この管理の仕組みを見極めてゆくことが重要である。・・・・・・・」