演者紹介
記念講演の当日、演者の山下さんを紹介するのは小沢牧子さんですが、この紹介は僕に書かせて欲しいと小沢さんに頼みました。記念講演に山下さんを、と言い出した一人でしたし、予想通り(?)渋る山下さんに依頼し話をした一人であったからです。
うまい表現ではありませんが、山下さんはアカデミズムとしての心理学に内在的な位置から批判的にこだわり続けてきた、というふうに僕は思っています。他方、社臨が日本臨床心理学会と袂を分かって設立されたとき、心理という言葉をはずして社会臨床という言葉を提案したのも山下さんでした。それは矛盾でもあり一貫性でもあります。
社臨は、臨床心理に関わる理論や実践を批判的に捉えることを、テーマの一つとしてきましたが、この作業には、臨床心理の裾野にある心理学の課題、考え方、方法の点検が必要なのではないか、とも考えられます。そこで、山下さんに心理学へのこだわりを話していただくことは、これからの社臨を考えるためにも良い機会となると確信しています。(三輪寿二)
講演者より
ながねん、自分なりに「測ること」にはこだわってきた。学会改革直後の日臨心に参加したのも当時(70年代初め)の心理テストの問題を契機にしてのものだった。その頃、あるシンポジウムで一人の教育心理学者から「あなたは身体検査のようなものをどう考えるのか」という質問があった。「自分のためにも測る」ということもあるはずでは、ということを示唆しようとしたもの、と思われた。だが、当時の主な問題は「測る―測られる」という関係性であった。
したがってその頃は、「測ること」は社会的な差別・選別のためであって、「自分のため」ということは考えられなかった。やがて、測ることも名前をつけたり、決定することも同じことだと思うようになった。
そもそも個人に名前をつけること、決定すること自体を根源的暴力と考える立場もある。名づけることは固有名を対応させるだけでなく、対象を規定し、支配することでもある。心理学における概念化の問題もこの文脈で考えることができる。
しかし、私たちは名づけること、決定することを避けることはできない。
それどころか、自分からすすんで「規定」する、あるいはそれを求めるというようなこともあってアイデンティティの問題も生じる。
近代社会では「司法的同一性」という言葉もあるように、様々な個人識別の技術が発達した。最近では、自分であることを自分が証明するよう求められることさえある。
自己規定と他者による規定は現代を生きる人間にとって、避けて通れない問題だが、私はあえてアイデンティティを求めない道を模索してみたいと考えるようになった。
もし可能なら匿名ということのもつ意味や、アイデンティティの両義性についても考えてみたい。