シンポジウムI
なぜ、いま、新しい「障害」概念が必要なのか~発達障害者支援法の背景〜
司会者から
ここ数年、インクルージョンの理念がもてはやされ、「特殊教育から特別支援教育へ」が提言され、その施策、実践が全国各地の教育行政・現場から報告されています。そのなかで、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、高機能自閉症など「発達障害児」とくくられる一群の子どもたちが注目されています。
ところで、昨年12月、このような流れを包摂し、教育・医療・福祉・就労などで、このような人たちを生涯的、全面的に支援する目的で、「発達障害者支援法」が成立しました。
このような事態は、どのような経過から生まれ、どのような実態を生み出していくのでしょうか。特に、身体障害・知的障害・精神障害に加えて、新たに「発達障害」が特出されて、そこへの法制化、行政化が進行しようとしている事態はどのような課題、問題を生み出していくのでしょうか。
従来放置されてきた領域に、教育・医療・福祉などの光があてられることは歓迎されるべき事態で、その具体化をしっかり求めていくべきであると評価する人々がいる半面で、わざわざ「発達障害児・者」の領域をつくりだして、いよいよ健常児・者と障害児・者を区分けし、障害児・者の間を多様かつ階層的に分断して管理、監視していく事態であると警戒している者たちもいます。もしかすると、これら二つの側面は表裏をなしていて、両義的になっているのかもしれません。
こんどのシンポジウムでは、上記三人の発題を受けながら、なぜ、いま、新しい「障害」概念を必要としているかに、とりあえずの焦点をあてながら、発達障害者支援法の背景と問題を一緒に考えたいと願っています。以下に、各発題者の発題要旨を掲載します。(司会 平井秀典、篠原睦治)
発題1 発達障害者支援法の成立の背景と問題(飯島勤 〜夢塾)
私は、長い間、障害児の教育にあたってきましたが、3年前から、ある障害者団体の事務局長をしています。「夢塾」というのは、私の活動基盤になっている私塾ですが、子どもや障害のある人たちと一緒に、創作活動を楽しんでいます。そんなわけで、障害者問題は、私には、切っても切れない問題です。
さて、昨年12月3日、ある法律が成立しました。…「発達障害者支援法」です。
この法律は、「発達障害を早期に発見し、発達支援を行なうことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするともに、発達障害者に対して学校教育、就労、家族等への支援を図ることを目的にする」ものだと言うのです。
しかし、この法律がもたらすものは、一体何なのでしょうか。そして、こうした法律が成立する社会的背景には、何があるのでしょうか。そんなことを、今度の総会で、皆さんと一緒に、考えることが出来たらと思います。
法文の是非もさることながら、この法律の使われ方には、相当な問題がともなうでしょう。また、こうした法律の成立を求める動きと社会状況との間には、何か構造上の問題が横たわっているように思うのです。関連する教育・福祉政策や社会的問題を例にして、このことに迫ってみようと思います。
もちろん、私は、教育や福祉において、どの子も大切にされなくてはならないと思います。そのため、障害児を排除しようとする教育に抗する運動に、長年こだわってきました。その道がいまだ厳しいことは事実ですが、このような法律がなかったから、こうした人たちが学校や社会に受け入れられなかったのでしょうか。…けっして、そうではないと思います。
発達とは、障害とは、支援とは、一体何なのでしょうか。私たち自身に、いまこそ、この根源的な問いを突きつけ、日々の暮らしにおいて、障害のある人と共に生きていくことが、何にも増して大事なように思います。
教育や福祉の問題をこえて、ここ十年ほどの世の中の動きを見ていますと、私には、今、とんでもない時代が訪れようとしているように思えてなりません。社会臨床学会が探求し続けてきたことの真価が問われようとしているのではないでしょうか。
私的な事情から、しばらくこの学会での活動ができませんでしたが、また、この辺で、社会臨床学の視点から、これらの問題を考えてみたいと思います。当日は、どうぞ、よろしくお願いいたします。
発題2 「軽度発達障害」概念がはらむ問題点(高岡健 〜岐阜大学)
2004年12月に成立した発達障害者支援法(以下、この法律という)をめぐっては、当初より賛否両論があった。この法律が成立した現在、次の焦点は3年後の見直しである。
この法律は、以下のような意味で、国際的というよりも日本的な法律である。第1に、国連原則で定められた、当事者からの意見聴取がなされないまま成立している。第2に、身体・知的・精神という三障害に分割して推進されてきた日本型障害福祉施策の、谷間に位置づけられる障害についての理念法である。第3に、日本でのみ流通する用語である「軽度発達障害」を、法の対象としている。このような日本的な法律が成立する背景には、残念ながら、それに先立つ近年の学級崩壊および少年事件に関するミス・リーディングがある。
とりわけ、第3の点に関しては、この法律の対象と特別支援教育の対象とが、奇妙に一致している点が問題である。両者とも、対象には広汎性発達障害ばかりではなく、学習障害や注意欠陥/多動性障害が含まれ、また、対象全体としては人口比の6.3%を占めるという、驚くべき高い数値が示されている。しかし、数値の根拠となる調査には、意図的かどうかは別にして、きわめて初歩的な誤りが存在する。
それにしても、広汎性発達障害など「心理的発達の障害」に分類される一群と、注意欠陥/多動性障害など「行動および情緒の障害」に分類される一群を併合して対象とすることに、どのような根拠があるのだろうか。本報告では、(高機能)広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥/多動性障害などの概念が成立するに至った背景をたどりつつ、それらが「軽度発達障害」と呼ばれる日本型概念へと転換・併合されていく過程について、批判的検討を加える。
発題3 「発達障害」児・者への支援はどういうことか
― 教育、心理からの関わり方を中心に ― (三輪寿二 〜茨城大学)
発達障害者支援法は、「発達障害」児・者に対して「支援」を行うものとして制定されたものです。そして、「支援」が必要という認識は、行政や専門家などからの「主張」であり、親や家族からの「要請」であったと言ってよいでしょう。それら多層な人たちの「主張」・「要請」の中身をなす「支援」は、広く医学的支援から教育的支援、心理的支援にまで及んでいます。
今回の発題では、第一に、それらの多重な「支援」のうち、専門家が主張する教育的支援と心理的支援をめぐって、その論理と実際について触れたいと考えています。現在、教育的支援については個別教育計画(IEP)をめぐって、心理的支援については「心の理論」にも関係している共感性(社会性)とその獲得をめぐって、それらの問題点を取り上げたいと思っています。
第二に、親や教師たちが期待する具体的支援についても触れたいと思っています。これらの支援は、僕が教育相談の実際で出会ってきた親や教師たちの話から感じ、聞き取ってきたものです。親と教師では期待する支援は当然異なります。
そして、第三に、専門家たちが用意する「支援」とその論理が、親や教師たちが期待する「支援」と重なっているのか、すれ違っているのか、などを検討したいと思います。それらは、結局のところ、「発達障害」児・者が僕たちの生活や社会の中でどのように位置づけられているか、を考えることにつながっていると思いますし、同時に、専門家が何をしようとしているのか、親や教師が生活の中で出会う子どもたちに何を期待し、押し付けようとしているのか、を明らかにすることにもつながっていると思います。
いま、いささか大上段に振りかぶっているような気がしています。こういうときは、当日、話がしぼむ可能性が往々にしてありますが、一緒に考えて頂ければ、と思います。